【食の編集部調査隊】トロント・チャイナタウンを探る「カナダにおける本格的な中華料理にあった本当の歴史」|特集「トロント調査隊がいく!」

【食の編集部調査隊】トロント・チャイナタウンを探る「カナダにおける本格的な中華料理にあった本当の歴史」|特集「トロント調査隊がいく!」

「Netflix」のグルメドキュメンタリー「Ugly Delicious」で、トロントにも進出しているラーメンチェーン店Momofukuの創業者で有名シェフのデイビッド・チャン氏は北米におけるアジア料理を批判的な視点で紹介している。「アメリカで中華料理がナンバーワンになれない理由は、その評価がいつも白人目線だからだ。白人好みの味や豊かなサービスでないと良い評価は受けられない。全ては彼らに好かれるためだ」と赤裸々に語っている。トロントは本格的な中華料理点が溢れる街として世界的に有名だが、ここではどのように市民の味として受け入れられるようになったのだろうか?この記事ではトロントのチャイナタウンとその料理の歴史を紹介したい。

カナダに挑む中国人労働者たち

カナダに初めて中国人が移民したのは1788年。その頃カナダはまだ国として成り立っていなかったためその記録が最古とされている。毛皮貿易を盛んにするため探検していたイギリス人に雇われ、広東省から海を渡った。彼らがたどり着いたのは現在のブリティッシュコロンビア州ビクトリアだった。のちにバンクーバーに移り、100年の時をかけ今も残る中国人コミュニティーを築き上げた。

特に移民が増えたのは1881年から1885年、1万7千人もの労働者がカナダ太平洋鉄道(Canada Pacific Railway)の建設に携わるために渡加した。白人労働者に比べるとうんと少ない給料で任された仕事は過酷なもので、およそ600人から4000人が過労や病気で亡くなった。爆発事故やトンネル崩落事故で命を落とすものも後を絶えなかった。低賃金に限らず長時間労働に励んだ中国人を見て、現地の労働者たちは自分らの仕事が奪われてしまうと危険を感じた。そのため死者が出ているのにもかかわらず中国人労働者たちに対して冷たい目が向けられるようになってしまった。

1885年の華人移民法により中国人がカナダに入国する際に膨大な税金がかかるなど、政治レベルでの人種差別も見られた。この政策はカナダで生まれた中国系カナダ人の登録やカナダ国外へ一時的に旅行する中国人にも影響し、中国と関係がある全ての人に対して税金が課せられた。西海岸での厳しい環境を逃れるため多くの中国人たちは鉄道が完成するとともにトロントがある東へと向かった。

トロント・チャイナタウンの始まり

トロント最初のチャイナタウン、「オールド・チャイナタウン」の名称で知られるエリアの始まりは多くの移民が西から押し寄せる少し前の1870年代にさかのぼる。

サム・チンという男性が9 Adelaide St Eastにクリーニング屋を構え、トロント初の中国人経営者になった。1881年には彼を合わせて中国人は10人しかトロントに住んでいなかったという。その後20年ほどの年月をかけて人口は200人ほどへと増加。Elizabeth StとQueen St Westの交差点から北のDundas St Westへ中国人移民のビジネスは増えていった。これは現在のトロント市庁舎とNathan Philips Squareがあるブロックだ。ユニオン・ステーション近辺にも中国人が多く住んでいたそうだが1904年に起こった大火事でたくさんの家屋が焼失した。

差別との戦い

かつて「St. John’s Ward」または省略して「The Ward」と呼ばれた地域(College, Queen, Yonge StとUniversity Aveで囲まれているエリア)に住むほとんどの中国人はクリーニング店を営んでいた。バンクーバーで経験した人種差別を恐れ、白人を怒らせないよう彼らが決して選ぶことのない仕事をして生計を立てていた。店の展開はQueen St EastのChurch StとYonge Stの間に集中していた。

1902年にはクリーニング店だけで100件にも拡大し、市は制限をかけるためライセンス費を導入した。バンクーバーに比べて差別的暴力は少なかったが、1919年11月に中国人店員が白人兵士への接客を拒否したことで400人もの抗議者がElizabeth Stの中華街で暴動を起こし、大被害をもたらした。1928年には白人が中国人の奴隷にされてしまうと不安に思ったことから市の要請により中国系カフェで白人女性を雇うことが禁止された。白人と中国人の間には深い溝ができてしまった。

中国人が多く住んだエリアではもともとユダヤ人コミュニティーが繁栄していたが、彼らは20年代にケンジントン・マーケットに拠点を移した。1920年代から1940年代にかけて中国人コミュニティーは食料品店やレストランだけにとどまらず、政治団体から劇場、メディアネットワークまで発展するようになり、人口ではビクトリアとバンクーバーに続く3つ目に大きなチャイナタウンになるまで成長した。

だが1923年には華人移民法改正案により留学生やビジネス以外の目的での中国人の移民に歯止めがかかり、すでにカナダに住んでいる中国人または2世には身分証明書が義務付けられた。家族を中国に残して移民した男性らは20年以上も家族との再会を待つこととなった。1947年に法律が取り消されるまで中国系カナダ人は選挙権さえも得られずにいた。

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