福井県ってどんな とこ?(2)織田信長のかげ|紀行家 石原牧子の思い切って『旅』第61回

一乗谷の朝倉家館跡

江戸時代に建てられた唐門
江戸時代に建てられた唐門

 向かったのは青々と茂った山々の谷間に広がる16世紀の久遠の世界、一乗谷。朝倉家五代目、朝倉義景の館跡がある。父親、孝景の頃には人口が1万人ほどいたと推定されるほど栄えた町で応仁の乱で京から知識人、文化人、高僧らがここに避難したため京文化が入り込んできたという。16歳で家督を継ぎ41歳にして無念の自害でこの世を去るまで義景は室町時代から戦国時代を駆け抜けた朝倉家最後の大名として越前を治めた。一乗谷は近年、特別史跡、特別名勝(庭園)、出土品2300点位上が重要文化財となるなど金閣寺や銀閣寺と並ぶ全国でも数少ない「三重指定」の史跡に加わった。発掘は1967年から始まり私たちがいったときも堀で採掘作業が続いていた。103年続いた朝倉家が織田信長に敗れたのは1573年だったが、無残に焼き尽くされた一乗谷はそのまま20世紀後半に発掘されるまで長い眠りに入っていた。

館の敷地内にあった 日本最古の花壇
館の敷地内にあった
日本最古の花壇

 278ヘクタールの谷間に敷地6400㎡の義景の館跡、そして武家屋敷や職人の家で賑わっていた様子が復元からうかがえる。山の斜面には400年前の岩を組んだ庭園跡が四ヶ所ある。約10棟の建造物があった館跡は敷地が石で区切られていて、ことに日本最古の花壇とも言われる長方形の囲いが興味をそそる。どんな花が植えられていたのだろうか。史跡のシンボル、唐門は江戸時代に朝倉義景を弔うために建てられた寺の山門だったが今は館跡の入口として気品と格調の高さとともに悲哀をただよわせている。それと相対するように、堀に泳ぐ色彩豊かで怪奇な模様に身を包んだ無数の〝にしき鯉〟が元気に生殖している。かつての一乗谷をしのばせる華やかさに加え、餌を競って取り合う姿は朝倉家の武将魂が宿っているようでもある。

一乗谷が栄えた頃の職人の様子
一乗谷が栄えた頃の職人の様子

越前大野城と犬山(戌山)

 一乗谷とは対照的に、織田信長から大野の一向一揆を収束させた恩賞として大野の大部分を与えられた金森長近は亀山に城を築いた。彼は信長とともに朝倉討伐にも出陣している。のちに北陸の『小京都』とよばれる碁盤の目のような城下町が発達し、越前大野は奥越前の中心地として430年も栄えたという。信長の影響は庶民の運命も変えていった。朝倉家と金森家の違いは時の運と立地条件だろうか。一乗谷は攻められやすい地形かもしれない。越前大野城は小高い山の上、上から越前大野が一望できる。

「天空の城」になれなかった大野城
「天空の城」になれなかった大野城

 実は私たちが大野城を目指したのは城に行くためではない。雲の上に浮く〝天空の城〟の福井県バージョンを犬山から撮ろうという魂胆だった。撮影の時期としては1週間ほど早かったが運を頼りに4時半に起床、熊除けのベルをつけ、足元を照らしながら登った。撮影スポットにはすでに四人のカメラマンがきていた。だが、雲はなく〝天空の城〟のドラマチックなシーンはなく無念。でもせっかく来たのだからとシャッターを切る私。犬山からご来光を拝んだ後の朝食は美味でござった。

「小京都」ってだれが決める?

 ご存知だろうか。日本には「小京都」が約40箇所点在する。福井県は越前大野と小浜市(12月号)の2カ所が認定されている。全国京都会議に加盟し、①京都に似た自然景観、町並み、たたずまいがある、②京都と歴史的なつながりがある、③伝統的な産業、芸能がある、などの条件を満たしていれば「小京都」と呼ぶことができる、というもの。

龍双ヶ滝(りゅうそうが滝)

(左)餌を取り合う一乗谷の錦鯉 (右)福井県唯一の「滝百選」龍双ヶ滝
(左)餌を取り合う一乗谷の錦鯉 (右)福井県唯一の「滝百選」龍双ヶ滝

 山道が細くなってカーブしたあたりから瀑音が聞こえてきた。60メートルの岩肌を叩き、こすりしながら凄まじく落ちているのを道から眺める。展望台があるわけでもなく、ごくナチュラルな観光スポットなのがいい。霧を吹いて落ちる滝水は九頭竜川を経て日本海めがけて長い旅に入る。階段を降りていって滝壺から岩壁を見上げるとパワーが降ってくる。いただきツ!福井県で唯一日本の滝百選に入る滝でありながら、もしその控えめな看板に気づかなかったら通り過ぎてしまったかもしれない。ちょっと得した気分になる。