銀の輸出国だった日本 ー 石見銀山世界遺産|紀行家 石原牧子の思い切って『旅』

石見銀山には史跡となった多くの神社仏閣が歴史を物語る
石見銀山には史跡となった多くの神社仏閣が歴史を物語る

 コロナ禍の県外移動が可能になって行った山陰の話の続きをしよう。地名は聞き知っていたが行くのは初めての石見(いわみ)銀山。2、3時間で巡れると高をくくっていたのが大間違い。自転車をレンタルしても5時間は必要だ。山陰本線の大田市駅から石見銀山まで車で東へ約25分の距離にある。

手前に瓦屋根の大森の町並み遠く南に銀山(要害山)
手前に瓦屋根の大森の町並み遠く南に銀山(要害山)

世界の銀生産3分の1を担った日本

 14世紀はじめに要害山(414m)山頂に光るものが見えたのがきっかけで銀の採掘が始まったと言われる。戦国時代後期から江戸時代前半が最盛期でその生産量は他の銀山(佐渡銀山、兵庫の生野銀山、福島の半田銀山、秋田の院内銀山)と合わせて世界の銀生産量の約3分の1を産出していたというからすごい。最も量が多かった石見銀山で推定年間約40トン。しかし石見銀山を巡って壮絶な争奪戦が繰り広げられていた。銀は何に使われたのか?

戦争から商業の発展へ

 皮肉なことに強欲な戦国武将達の戦力強化の手段として銀は重宝され経済も同時に発展していった。豊臣秀吉の朝鮮出兵資金にも銀が使われ、ヨーロッパでもいち早くアジアに進出したポルトガルからは大量の銃を輸入するため銀が支払われた。ポルトガル船は中国の絹織物など日用品も日本に輸出し、代金を銀で受け取っていたといわれる。

当時中国の明でもモンゴル戦や万里の長城整備資金の調達に自国では間に合わない銀を日本から密貿易で手に入れていたそうだ。スペイン支配下にあったポトシ銀山(現ボリビア)と並ぶ銀産出地として石見銀山は西洋でも有名になった。

寿命30年の銀山坑夫と銀山の終焉

ガイドの足立さんについて間歩に入る
ガイドの足立さんについて間歩に入る

 坂道を電動自転車で楽々登り間歩へ。間歩(マブ)と呼ばれる坑道や付随道は全部で700以上あるが私たちの入った龍源寺間歩は江戸時代に掘られた狭い道も残されており、出口には当時の坑夫たちの仕事の様子を描いた絵が展示されている。穴掘りや内側の採掘も手作業で行われていた。主に罪人が坑夫として使われ、暗くジメジメした環境の中、何時間も這うような作業を強いられ、病に伏す者も多く、坑夫の寿命は30歳前後だったというショッキングな事実も忘れられない。

確かに坑道に15分もいると体全体が湿気に覆われ一日中いたら神経痛で立っていられなくなりそうだ。関ヶ原の戦いで勝利を得た徳川家康は17世紀はじめ、石見銀山を接収。銀山麓北の大森地区に代官所をおいた。銀の生産はピークを迎え、山の上には千軒もの民家が立ち並び、寺院も数多くあった跡があるという。

銀の産出量が減ると明治元年(1868年)には民間払い下げとなり銅に集中した。大正12年(1923年)に休山、のち、軍事用の銅生産を試みるも昭和18年(1943年)に完全閉鎖。2006年には鉱業権が民間から島根県に譲渡され翌2007年に世界文化遺産となったわけだ。

今は資料館になっている徳川幕府最後の代官所
今は資料館になっている徳川幕府最後の代官所

古くてモダンな集落、大森地区

 通称「石見銀山」は間歩や製錬所跡のある南部の銀山地区と北側の谷間に広がる2.8キロの大森銀山重要伝統的建造物群保存地区からなる。大森地区に空き家ができると外部からでも入居することができるが、一定のルールが課される。郵便受け、牛乳箱など外に出るものは木製とし、屋根には瓦を使う、等々。徳川幕府2代目竹村丹後守の統治下では陣屋、宿、武家屋敷、商家が立ち並んだとされ、大森地区は今もその風情を保ちながら21世紀人の目を楽しませてくれる。

広さ約29㎢の町は現在では高齢者をのぞいて若者の3分の1は大森出身の起業家による義肢装具メーカーの「中村ブレイス社」と「群言堂」という服のデザイン会社および子会社のカフェに就職しているという。群言堂の広い古民家入口を入ると、緑いっぱいの中庭に面したカフェが日用品売り場と隣接している。長い廊下はコートやドレスが並ぶブティックに続いていた。

2階にはイベント用のレンタルスペースまである。若者が移り住みたい町の条件が整ったような集落だ。聞けば宿泊できる古民家もあるという。次回はそこに泊まってじっくりと石見銀山の昔と今を味わって見たいものだ。

群言堂の看板をくぐると奥はモダンなカフェが
群言堂の看板をくぐると奥はモダンなカフェが
約800m続く大森の整備された古民家通り。郵便受けは木製。
約800m続く大森の整備された古民家通り。郵便受けは木製。