新型肺炎の教訓|バンクーバー在住の人気ブロガー岡本裕明

新型肺炎の教訓|バンクーバー在住の人気ブロガー岡本裕明

 新型肺炎の影響が広がってきた。中国で始まったものが世界に飛び火し、今や北米にも上陸して否が応でも人々の関心を奪っている。感染が広まったその理由である社会的習慣やトレンドと新型肺炎の拡散という点を中心にその問題と教訓を考えてみたい。

 日本では4、5年ぐらい前から「モノ消費からコト消費へ」というトレンドが急速に取り上げられるようになったのはご存じだろうか?欲しいものはより少なくなり、個人のし好性の高いもの以外は案外「ミニマリスト的」消費で大丈夫という人が増えてきたという意味である。

 その反面、人々はコンサート、スポーツ観戦、はたまたスポーツバーで皆で盛り上がるという傾向がより強く出始めたのがこのところのトレンドでコンサートの入場客は歴史的水準に達し、人々がより集積しようという傾向は強まっている。これは洋の東西を問わない。

 そんな中、大阪のライブハウスで新型肺炎の集団感染が起きてしまった。報道から察するに狭いところに多くの人が集積、ライブハウスであるため、防音上の問題もあり換気が悪く一気に感染が広まったということであろう。

 同様のことはクルーズ船で多数の感染者を出したケースも似ている。クルーズ船は比較的社交性が高い人たちが一つの船の中で数日間を過ごすという密閉性と人の距離が近くなる接近性が高い特徴がある。今回、窓なしの部屋にも多くの客がいたわけだが、当然換気は悪くなると想定しなくてはいけない。

 日本ではコト消費が引き金を引いたようだが、海外では社会習慣的な人の集積というのもある。例えば韓国で集団感染したのは教会が原因だし、イランの集団感染も同国コム地区に巡礼に来ていた人たちから急速に広がっているとみられている。要は人の集積具合と換気が一つのトリガーであったように見える。

 北米では新型肺炎は本稿を書いている3月上旬になってようやく大きく話題になり始めているが、個人的には潜在的感染者は結構いるのではないか、という気がしている。特にアメリカでは大統領選挙戦が繰り広げられているさなかで人が狭い会場にたびたび集積することを繰り返している。恐ろしいことだが、もしもこんな状況で感染者が出たならそれこそ大統領選どころではなくなるリスクすら抱えているといってよい。

 さて、この収まる気配を見せない新型肺炎の行方はどうなるのだろうか?正直、カオスである。まず、公共交通手段での移動が嫌になってくる。混雑する車内ではマスクをしていても咳払いすら嫌がられる。タクシーに乗ってもつい、窓を少し開けて換気したくなるのが人情だろう。

 私は日本に頻繁に通っているが、次回のフライトをどうするか、非常に悩んでいる。それは日本側にしろ、カナダ側にしろ、状況次第で突如の「ルール変更」が押し付けられるからだ。2週間自宅待機せよ、などと言われたからには何のために出張に行くのか本末転倒になるだろう。こんな状況では誰も移動したくなくなるのだ。

 日本は子供たちが想定外の1カ月春休みなのにどこにも行けない、どこもやっていないという未体験ゾーンを経験した。次の関門はゴールデンウィークであろう。日本人の性格からすると現状から大幅な改善が見込まれなければこちらも空振りに終わる可能性はある。

 そうなると次の目線は東京オリンピックになろう。個人的には日本がどれだけ防疫対策を施しても海外からの選手団、一般客が安全安心かという確証を得にくければ開催は危ぶまれる公算はあるだろう。仮に開催しても観光客は海外を中心にキャンセル続出ということもありうる。

 そういえばオリンピックに向けてホテル不足を解消するために豪華客船をホテル代わりにするという案があったが、あれは死んだも同然だろう。誰もいま、豪華客船には泊まりたくないはずだ。

 私は今回の問題を新型肺炎の世界への急速な広がり方という点を中心に考察を進めている。今や、多くの国の人たちが海外旅行に手軽に行けるようになった。欧州では人の移動の自由を約束したシュンゲン協定がある。昨年、日本には3000万人以上の人がやってきて日本の隅々まで外国人が押し寄せ、古びた温泉町ですら外国人が占拠し、ある意味、地方景気の回復に協力してくれていた。

 多分、ほとぼりが冷めるまでこの傾向は逆回転をするのだろう。人は集積を好まず、少人数で楽しむレジャーを求めるかもしれない。ハイキングやキャンプ、サイクリングであったり、一人グルメの旅であったりするかもしれない。

 新型肺炎が引き起こした社会教訓ともいえるのかもしれない。学校や会社に行かないでオンラインで勉強したり、在宅勤務が普及するかもしれない。だが特に日本にとって通勤時間、子供の託児所の問題、ご主人とのワークシェアリングなど数々の問題が在宅勤務の普及で解決できる機運ができるという視点も忘れてはいけない。

 不登校の子供たちも平等に勉強できるオンラインスクールが出来ればそれは教育の機会均等という意味で画期的なものになろう。それでは余計学校に行かなくなるのではないか、という懸念は逆だろうと感じる。勉強が楽しくなれば人は必ず人を求めるようになるのだ。

 私は今回の問題は現代社会に多くの提示があったと考えている。災難だったと悲観に暮れるばかりではなく、次の展開に道筋を作ってくれたチャンスであったと前向きに考えている。