アルゼンチンから南極へ(2) 地の果てーウシュアイア|紀行家 石原牧子の思い切って『旅』第78回

ウシュアイアってどこ?

ウシュアイアとその周辺地図(インターネットより)

三角屋根のウシュアイア(Ushuaia)空港ビルから一歩外に出るとヒヤッとした山の空気が肺に飛び込んでくる。ブエノス・アイレスの30度の真夏の気温とはうって変わって20度の清々しい気候だ。ここは山あり水ありのリゾート都市として知られている。人口約7万人の街はフエゴ島(Fuego)に位置し、「地の果て」と言われてきた。海に迫る切り立った山々をバックにビーグル水道(Beagle Channel)を一部縁取るようにウシュアイアの街が細く広がる。フエゴ島の北側には有名なマゼラン海峡(The Strait of Magellan)があり国際船舶が往来する。

オレンジ色に染まるビーグル水道の朝

またウシュアイアの対岸にはチリの島々があり、両国に挟まれたビーグル水道を通ってクルーズ船が入港するわけだ(地図参照)。フエゴ島は20世紀前半、アルゼンチン政府が凶悪犯を送り込み森林の伐採や鉄道の労働に従事させた歴史がある。当時を物語る大きな刑務所(1902~1947)があるが、今はマリタイム兼アート・ミュージアムとして海軍と市の協力で民間運営されている。

マリタイム・ミュージアムで白瀬矗の南極探検記事を発見

刑務所の監視人形が見守るマリタイム・ミュージアム

港から坂を少し登るとレストランや店が立ち並ぶ中心街に出る。アウトドア用品の店も数軒ある。町外れの広い海軍基地内に元刑務所だったマリタイム・ミュージアム(Museo Maritimo de Ushuaia)がある。何百とある狭い独房がそのまま展示室になっていて囚人たちの過酷な労働の歴史や世界中の南極探検に挑んだ男たちの記録が身近に迫ってくる。『Endurance(エンデュランス号)』の本で知られるイギリスのアーネスト・シャクルトンの南極横断(1914)の失敗と生還大作戦の話は有名で今も語り継がれているが、1910年にノルウェーのアムンゼン、イギリスのスコット、日本の白瀬の「三人」が同じ時期に南極点をめざして出発していたことはあまり知られていないのではなかろうか。一番乗りはアムンゼン(1911)で無事帰還。一ヶ月後にスコットも到達したが無念の二番手、帰還できず死亡。白瀬は到達できず日本に戻ったがアムンゼンやスコットと同じく白瀬の名を南極大陸に刻んだ。その白瀬隊長の写真と開南丸の模型の前で私はしばし釘付けになった。彼は今の日本の昭和基地とは正反対の位置から上陸している。現在就航中のダイナミックな南極観測船、シラセ号は「白瀬」からきている。

白瀬矗隊長が南極探検に使った開南丸の模型

フエゴ島国立公園(テイエラ・デル・フエゴ・ナシヨナルパークTierra del Fuego National Park)

ウシュアイアは山と水に囲まれたリゾート地

チリ側から登る朝日であたり一面オレンジ色に染まるビーグル水道、全長240㎞の水路は約630㎞の広さをもつ園内を通る。郊外にあるこの公園は8時を過ぎると有料なので7時に街を出発。仲良くなった四人組でタクシーをシェアして移動、ドライバーは片言の英語でハイキングできる要所要所に止まって待っていてくれた。私たちは野生の馬に出会ったり、神秘的な緑のラグーンを見たり、ゴーゴーと唸る滝に感嘆の声もかき消されたり、底が見えるほど澄み切った川岸を歩いたり、最果ての郵便局を訪れたりと、これまで持っていた南米アルゼンチンの印象とはまるで違った体験をすることができた。ちなみにタクシーの規定料金は3時間で一台2万6千円相当だったが、5時間をチップ込みで、一人約1万円相当。

船が来た!いよいよ乗船

フエゴ島国立公園内にある「地の果て」郵便局の前に立つ筆者

以前ラブラドールとグリーンランドに行った時と同じアドベンチャー・カナダ社に申し込んだので懐かしい船舶に再会した。下火とはいえコロナ禍の航海なので総乗客人数も今回は190人。一番安い相部屋を予約していた私はオーストラリアからきた若い女性二人と一緒になったのだが、乗船前に仲良くなったバンクーバーの女性は自分も相部屋だが一人だというので私に〝引っ越し〟を勧めてきた。パデイは画家で私たち二人は意気投合、年齢も近く仲良しルームメートとなる。カナダとオーストラリアを中心にアメリカ、ヨーロッパの人たちを乗せ、船はゆっくりビーグル水道を滑り始め、太平洋と大西洋がぶつかるドレーク海峡(Drake Passage)の荒波に進路を設定した。