民主主義、権威主義、政治の行きつくところ|バンクーバー在住の人気ブロガー岡本裕明


トロント市長選でオリビア・チヤウ氏が102人の候補者の乱戦を制した。プロセスは民主的だったが支持率は37・17%だ。アメリカでは来年大統領選が行われる。二大政党のどちらかを選ばざるを得ないが果たしてどこまでを民主的とみるべきだろうか?24年3月にはロシアの大統領選もある。ウクライナとの戦況次第で結果はどうにでも転がるだろう。直接選挙で選ばれる大統領や地方自治体の長は人々の価値観が多様化する中、それをまとめ上げることができるのだろうか?政治の行きつくところを考えてみよう。

外部の者から言わせれば市長選に102人も立候補するということ自体がバカげている。主義主張の乱立で全くコントロールが効いておらず、学級委員の選任にクラス全員が立候補するようなものだ。覚えている方もいらっしゃるかもしれないが、2020年のアメリカ大統領選の際、民主党の大統領候補予備選の立候補者は20名以上いた。対立する共和党の候補者が比較的絞り込まれていたことと比べ、大きな話題となった。

トロント市長選にせよ、アメリカ民主党の大統領候補者選びにせよ、なぜ、立候補者が多いのだろうか?

これは候補者が細分化された利益集団の声を反映しようとするからだろう。昔から選挙をすると都市部では左派(革新系)が、地方では右派(保守系)が強いとされる。トロントにしろバンクーバーにしろアメリカの主要都市にしろ、多くが革新系で占められるのは経済的格差、宗教観、移民など立場の弱い人々、LGBTなどの背景、社会主義や共産主義的思想など様々な考えが入り乱れやすいからだ。概ね、共通するのは都市生活に於いて金銭面や社会サービスで不満を募らせる住民が多く、そのため、「あなたのその声を政治に反映します!」という左派政党は耳障りが良いのである。

一方、左派的民主党はまとまりが悪くなることも事実だ。例えばバイデン大統領が率いるアメリカの政治を俯瞰すれば「もう終わっている」と言われるほど方向性をなくしてしまった。何故ならアメリカ民主党は様々な声をかき集め左派内部の妥協を強いられる一方、対する共和党と「がっぷり四つ」であるゆえにぎりぎりの調整を求められるからだ。

挙句の果てに学生ローンの支援策は最高裁で拒否られ、大学のアフォーマティブ・アクション(積極的差別是正行為)も不平等であると判断された。バイデン大統領は怒り心頭だが、そもそも最高裁の判事9名のうち6名が保守系なのだから最高裁が公平な判断を下すと期待することが間違いだ。

こう見てしまうと政治そのものが茶番に感じる。政治は美しいものであると同時にとてもドロドロしていて計算と打算の産物であることも多い。日本を含め、政党政治に於いて各議員は格好良いことを言うのだが、結局、党利党略の中、党の理論に歯向かうことはできず、議員の個性は大きく制約を受ける。

ところで皆さんはカナダの政治に触れたことがあるだろうか?

私は接点が多い。特に夏のこの時期は議会がないので多くの議員は地元で名を売るために精力的に活動する。夏のコミュニティーイベントに行くと連邦、州、地方自治体、各レベルの政治家のオンパレードだ。先日、カナダと韓国の通商60周年記念行事に招待されたが、州首相以下、連邦議員や州議会議員がずらり揃っている。週末には台湾系のイベントにも参加したが、知り合いの大臣が写真を一緒に取り、私に食事はしたかと気遣いをする。

市議会レベルでも私の開発案件に「リボンカットには俺も呼んでくれ。困ったことがあれば何でも聞くよ」と御用聞き状態の品のない議員もいるのが実情だ。

では権威主義の政治の方が良いのか、と言われればこれでは人権が確保されない。ジョージ・オーウェルが1949年に刊行した監視社会を描く「1984」を地で行くのが中国とされ、14億の民を共産党の規範に縛り付ける。多くの人々は諦めているので枠組みの中で生きることに抵抗しようとしない。だが、中国が今の体制で維持し続けられるかと言えば多くの西側専門家は疑問符をつける。

そして3期目の習近平体制は取り巻きをイエスマンで固めた。つまりどのような「異見」も聞くことはないため、それが正しいかどうか議論すら無くなる。これで国家がうまく運営できたケースは歴史を紐解いても成功例は非常に少ないであろう。

ウクライナの戦争はなぜ起きたか

逆説的だが、見方の一つにソ連が崩壊し、アメリカ一極体制になったからだ、という考えがある。フランスのエマニュエル・トッド氏などはその発想だ。つまり米ソ冷戦時代は双方の綱引きの緊張感の中で一定のバランスを保っていたが、アメリカ一極体制が1991年から今日まで続く中で悪いサイクルに入っているという考えだ。

私はアメリカの政治は二流と断じている。世の中が多様化する中で民主党と共和党、二つの選択肢のパッケージディールしか与えらえず、世のあらゆる判断をどちらかのバスケットから選べ、だからだ。当然、そのバスケットには腐った果実もあるが国民はそれをより分ける選択肢すら与えられない。

一方、過度の民主主義となれば妥協という折衷案に「改悪」という言葉がついて廻るだろう。トロントにしてもバンクーバーにしても中華系のカナダ人が先頭に立つ運営は決して容易くないはずだ。

我々の接する政治は難局の最中にあるのかもしれない。