「新婚1ヶ月。旦那、60%の確率で死ぬらしい」海野芽瑠萌さん カナダ在住歴13年|私のターニングポイント第14回

カナダで 2011年より留学エージェントBRAND NEW WAYをパートナー経営してきた海野さん。10年の節目を迎えパートナーシップを解消、「MYNDS Inc.」として自分の会社を起業した。元のご主人と仕事のパートナーの支えを受けて走り抜けた10年のカナダ生活。海野さんにとって本当の「自立」はここからがやっとスタートなのだと感じているという。

助かる確率は40%

 11年前の元主人(2022年の今も元気に生きてます!)が遠距離恋愛中に、背中が痛いと病院に行くと初期の精巣ガンで完全治癒率95%と診断され手術を受けました。そのタイミングで、人生何があるか分からないからと結婚を決めて、日本で結婚式と入籍をし、私が移住の準備を進めたまでは良かったのですが、念のため受けた抗がん剤治療でも腫瘍マーカーの値が下がらず、手術から約6ヶ月後、オンタリオ州の提供する治療法はもうありませんと言われました。

 その上で、「アメリカに新しい免疫療法があり、相談したら引き受けてもらえることになった。9月からアメリカに治療に行く。」そう聞かされた時の感想は、ちょっとなに言っているか分からないという感じでした。3泊4日2回乗り換えの弾丸でヘトヘトでお見舞いに駆け付けた私を、日帰り手術・ベッドでゲームしながら「はろー!」と元気に迎えたところから半年で、何がどうなったらそうなるのか全く理解できませんでした。その時点で私は、退職しマンションも引き払い退去日も決定していたのですが…。そしてトドメの一言が「その治療法をやっても、助かる確率は40%」でした。

 というわけで、元主人と世話役のお義父さんは一足早くアメリカへ、私のカナダ幸せ移住計画の第1日目は、お義母さんだけの出迎えで幕開けとなりました。アメリカ出発の前日、お義母さんが「メルモ、どうする?」と聞いたのを今でも覚えています。辛い思いをするかもしれないのに本当にいいのか、みたいなことを言われたと思いますが、「Okasan(こう呼んでました), I can’t go back.」と答えたはずです。ターニングポイントというか、point of no returnですね。絶対反対されると思い、親にも病気の話をせずに来たので戻るという選択肢がなかった。今から考えたらとんでもない無鉄砲ぶりでした。

私、本当にどうなるんだろう?

 治療期間は約3ヶ月で、私は1ヶ月ほどしてから合流し、米国インディアナポリスの病院で過ごしました。当時は病院で話される英語はチンプンカンプンで、薬の名前も覚えられません。看護師さんとのやり取りや、膨大な数の薬の管理はお義父さんの仕事、私ははっきり言って何の役にも立たなかったですね。主人の方はどんどん痩せてくるし、髪の毛はないし、病室と部屋の往復だけの生活。元々白目をむいて寝る人だったので「えっ、死んだ!?」と息を確かめたことも何度もありました。

 本当に死んじゃったら、私、本当にどうなるんだろう?と毎日思ってました。自分の努力や気力でどうにかなることなら頑張れますが、ただ横に座ってニコニコしているしかない、というのは辛かったですね。治療自体は成功し、晴れてカナダには戻りましたが、再発の可能性はあり5年は気が抜けないとのことでした。

 治療にかかったお金は、義父・義母が出してくれることになったものの、主人の奨学金もありマイナスの状態で新生活がスタート。留学生レベルの英語では何の役にも立たないし、無力感みたいなものはアメリカで毎日、嫌というほど味わったので、とにかく自立が最初の目標でした

最悪、旦那が再発して死んでも、カナダで一人生きて行くだけの力はつける、というのがこの時の決心!

 漠然とまぁ、結婚して、子供ができて、老後は…と、旦那ありきで考えていた人生プランが木端微塵に吹き飛ばされ、ワーストケースは新婚半年くらいで未亡人という未来像を突き付けられたおかげで、「今」を大事にすることと、「自立」を意識するようにはなったのかと思います。

 治療が終わってカナダへ戻って来て11年ですが、こちらでの友人関係、仕事・勉強など自分のためにやって来たことは、全てまた明日からの自分を助けてくれると感じています。元主人と書いている通り、結婚9年目で夫婦としては離婚を選択しましたが、今も、元主人・義両親・義兄ご家族とは定期的に会う関係性です。「結婚」という関係が全てではないと思えるのは、当時の「結婚しても最悪1人」という現実があったからかなとは思います。

■ いまの自分に点数をつけるとしたら?

100点 再スタートの今は一旦100点満点!ここからまた0になったり50になったりすることもあると思いますが、また100に戻せるように頑張ります♪

■ もし人生をやり直せるとしたら、いつ?

 私の名前の候補が、「美鈴」・「香苗」・「絵里奈」だったのと(そこに最後の最後に芽瑠萌(メルモ)をぶっこんだ父親の心境は謎すぎますが)、両親ともに静岡の生まれだったのに大阪に出てきて私が生まれたので、もし静岡で、名前もこの3つのうちのどれかだったらどういう人生だったかな、とは思います。「大阪生まれのウンノメルモ」じゃなかったら、常におもろい方・ユニークな方を選ぶこの思考は育たなかったかもしれないです。

■ 人生で大切なことは?

 ご縁とタイミングでしょうか。今までの人生を振り返っても、人とのご縁や、何かしらのタイミングがうまく合った時に人生が動いたように思います。

■ 学生時代のエピソード

 ウンノメルモというこの冗談のような名前のせいで、一部の先生とか大人ウケが良くなかったですね。当時はまだキラキラネーム的な市民権はなく、本当にただの変な名前でしたから、変な子扱いはよく受けました。その反動なのか、生徒会長とか、~長みたいなのは率先してやりました。なんでしょう、「変な名前だから変なヤツに違いない」と思われたくなかったんですかね(笑)

■ 将来の夢・ライフプラン

 カナダ留学・海外で暮らす…くらいまでは20代の夢でしたが、国際結婚・カナダ移民・起業までは想定外で、怒涛の勢いで走り抜けた気分なので、ここからの10年くらいはちょっとペースを落として、毎日を大事にしていきたいと思います。また10年後くらいにムクムクとおもろいことしたい、とか思うかもしれませんが。

-座右の銘: 臥薪嘗胆
-好きな本: 『道をひらく』『反応しない練習』『誕生日大全』
-尊敬する人: 桜井和寿
-感謝している人と一言メッセージ: 父と母。生まれてきて良かったと思います。
-カナダの好きなところ: 国籍・見た目・言葉全て、人それぞれが当たり前なので、誰と一緒にも意識して別にもならなくていいこと。