鉄道に憧れて:カナダ鉄道、およそ190年のロマンと挑戦の日々|特集「歴史とロマン、カナダの鉄道・駅物語 」

鉄道に憧れて:カナダ鉄道、およそ190年のロマンと挑戦の日々|特集「歴史とロマン、カナダの鉄道・駅物語 」

1832年、モントリオールのビジネスマンが集まり、ニューヨークまで物資をより早く配達するためにセントローレンス川とシャンプレーン湖を結ぶ鉄道「Champlain and St. Lawrence Railroad」の建設に合意。

1836年7月、いずれカナダとなる土地で初めて鉄道が走った。この路線は一般人の旅行にも多く利用され、乗客の中にはイギリス人作家のチャールズ・ディケンズがいたという。

それまで冬になると湖が凍り貨物の運送は5ヶ月ほど中止になっていたが、この開通を機に東部では次々と鉄道建設ラッシュが続き商業の発展を支えた。これがカナダにおける鉄道の始まりだった。

以来およそ190年間、この土地の人々は鉄道に大きな夢をのせてきた。これは彼らが創った歴史だ。

鉄道がオンタリオにやってきた

Courtesy of Toronto Public Library

昔「Canada West」と呼ばれていたオンタリオ州で初めて開通した「Ontario, Simcoe & Huron (OS&H)」はその名のつく湖を繋ぐ路線として始まった。1853年のことだった。

鉄道以外にも「Stagecoach」と呼ばれる駅馬車も存在したが、お金がかかるため富裕層しか利用できなかった。しかしカナダ州(現在のオンタリオ州とケベック州を合わせた当時のイギリス領)の人口が増えるごとに移動手段と物資の運送手段として鉄道への需要は高まり、建設される運びとなった。

軍事戦略と鉄道建設

Courtesy of Toronto Public Library

「OS&H」の建設が決まった1848年当初、33年前に終結した米英戦争の名残でカナダではアメリカがまだ占領しにくるかもしれないという不安が少なからず残っていた。カナダ州はなんとかアメリカ人が近づくのを阻止するため、軌間(またはゲージ)と呼ばれる左右のレールの間隔をアメリカのものと違う長さにわざわざ変えたのだった。

「OS&H」最初の駅は現在のユニオン駅東口のFront St. エントランスの位置にあったという。この駅を初めて出発した蒸気機関車の名前は街と同じ「Toronto」で、乗客に加え茶葉や塩などの商業貨物を乗せていた。

大きく動く経済

Courtesy of Toronto Public Library

1849年以降、起業家だけでなく立法府も鉄道の建設に関わり始めたため、それまで以上のお金が鉄道業界で動くようになった。
1857年、アメリカで初めて起きた経済危機の影響がトロントにも押し寄せ「OS&H」は翌年「Northern Railway of Canada」に改名。大量の支出や借金が建設工事、そして経営自体を危機に追い込んだが、鉄道が通るようになったことで橋やトンネルなどのインフラ、駅周辺の店舗とその商店、そしてホテルなどが徐々に街を彩るようになってきたため需要が途切れることはなかった。

長距離列車への挑戦

1867年、カナダ東部ではノバスコシア州とニューブランズウィック州、ケベック州を横断するインターコロニアル鉄道建設の計画がスタート。
同年建国したてのカナダの連邦政府がこの鉄道会社の経営を仕切ったが、資金は主にイギリスからの援助を受けて賄った。
世界標準時を提案したことで知られる土木技師のサンドフォード・フレミングの指揮で1876年に建設工事が完了した。

同時期、西海岸のブリティッシュコロンビア州では初めてカナダ大陸を横断する鉄道の建設が期待されていた。
先住民の土地を乗っ取るような形で計画されたこの鉄道はのちにカナダ太平洋鉄道(Canadian Pacific Railway)として1886年に開通し、モントリオールからブリティッシュコロンビアにあるポート・ムーディを結んだ。

これもまた連邦政府が経営。建設には莫大な費用が与えられたが中国人やヨーロッパからの労働者に支払われた賃金はとてつもなく少なかった。その上最低600人が工事現場の事故で亡くなったことは今でも忘れてはならぬ悲しい歴史だ。

高まる需要

Courtesy of Toronto Public Library

1900年以降、海外からの移民人口が瞬く間に急増。「プレーリー」と呼ばれるマニトバ州やサスカチュワン州、アルバータ州で農業や鉱業が盛んになり、カナダ太平洋鉄道だけでは需要を補えなくなった。

そこで二人の起業家ドナルド・マン氏とウィリアム・マッケンジー氏によりカナディアン・ノーザン鉄道(Canadian Northern Railway)が作られた。
プレーリーでの利便さを重視するため、レジーナやサスカトゥーン、プリンス・アルバート、エドモントン、イエローヘッド峠を通るルートが初めて開通した。

大陸横断鉄道の発展と失敗、そして持続性

Courtesy of Toronto Public Library

カナディアン・ノーザンができた後、「Grand Trunk Pacific Railway」という大陸横断鉄道を建設したウィルフレッド・ローリエ連邦首相。だが彼はすでに3つ目の大陸横断鉄道の建設を夢見ていた。
彼が好んでいた鉄道会社「Grand Trunk Railway Company(GTR)」とカナディアン・ノーザン鉄道が提携すれば素早く実現できたのだが、ローリエ首相と起業家らの間にはお互いに嫉妬心があり、ローリエ氏は連邦政府の力だけでマニトバ州ウィニペグからニューブランズウィック州モンクトンまで路線を発展させた。

完成後に「GTR」に運営を受け渡し、ウィニペグから西海岸までをつなぐ路線の建設を任せた。だが次第にカナディアン・ノーザンも「GTR」も経営が破綻。第一次世界大戦が始まると移民はカナダに来なくなり、イギリスからの資金援助もなくなった。

1920年代には「Canadian Northern Railway」と「Intercolonial」、「Grand Trunk Railway」、「Grand Trunk Pacific」を全て国営化することが決まり、統合させて「Canadian National Railways(CNR)」が結成された。

国営化されてからも第二次世界大戦が勃発、鉄道の利用者は減るばかりだった。終戦後も車や飛行機など新しい交通手段が好まれたが、鉄道は寝台車やドーム型でガラス張りの天井があるおしゃれなラウンジスペースなどラグジュアリーを売りにした列車を50年代に発表した。その精神は連邦政府が1977年に創設した「VIA Rail」で受け継がれており、豪華な景色をじっくりと味わえる大陸横断を今でも提供している。

©VIA Train Alexandre Socci