『働く』ことと、『WORK』すること|カナダのしがないラーメン屋のアタマの中 第35回

『働く』ことと、『WORK』すること|カナダのしがないラーメン屋のアタマの中 第35回

 先日、日本のメディアからインタビューの依頼があり、「三十代の仕事」について話をしました。その中で「働く」ことと「WORK」することの違いについてお話ししましたので、今回はそちらをさらに深掘りして書いてみたいと思います。

大量生産、大量消費社会で機能してきた「働く」サスティビリティやSDGs、ESG社会の現代に必要な「WORK」の考え方

 「働く」ことと「WORK」することは、基本的には同義ですが、まずはそれぞれの言葉の意味を紐解いてみます。「働く」とは、「人」が「動く」と書く通り、何かしらの作業をおこなったり、仕事をしたりといった意味です。そこには成果であったり、働いた結果に関しての意味合いは含まれません。つまり、何のためにやっているかわからないけど決まった作業をしたり、何となく時間を埋めるための業務でも、時間が過ぎればそれで働いた事になります。これは、長く働くことが評価の対象になってしまったり、何も決まらない長時間の会議だったり、残業ありきの労働の温床になっている側面もありそうです。生産性の向上という点でも相性が悪そうですね。

 一方で、「WORK」には機能するという意味があったり、作品と訳される事もあるので、その仕事で何かしらの価値を生んだり、成果物が上がってこないと、それは「WORK」とは言えないという含みがあるように感じます。「働く」に機能するという意味がないわけではありませんが、「WORK」と比べたときに圧倒的にその意味で使われることはすくない印象です。

 しかし、「働く」がダメで「WORK」が良いという事では決してなく、この働き方で日本は戦後の高度経済成長期からバブル期にかけて、ジャパン・アズ・ナンバーワンと言われるまでの発展を遂げました。がむしゃらに働いてモノやサービスを作り続ければ、それが売れたからです。ただ、その大きすぎる成功体験が平成の失われた30年を生んでしまい、令和になった今でも根深く残っていると感じます。大量生産、大量消費社会では「働く」は大いに機能するけど、サスティビリティやSDGs、ESGという様な判断軸が必要な現代においては、「WORK」の考え方を持ち込む必要があるのではないでしょうか。

 特に日本は人口減少社会なので、生産性が上がらない限り生活水準を落とすしかありませんが、生産性を上げるにはまずは「働く」カルチャーをどうにか変えていかないといけないと強く思います。

デヴィット・グレーバー著「ブルシット・ジョブ」

 ただ、これは日本と英語圏の違い、という単純な話ではどうやらなさそうです。昨年、世界中で刊行されたデヴィット・グレーバーの「ブルシット・ジョブ」では、実に4割弱の労働者が、自分の仕事が社会に対して何の価値も生まない無駄な業務であると感じているといった過激な論を展開しています。日本語版は、副題に「クソどうでもいい仕事の理論」と添えられていることからもわかるように、世の中には、誰かを偉そうに見せる取り巻きであったり、意味のない書類を作成するだけの書類穴埋め人だったりと多くのブルシット・ジョブが存在し、たちが悪いことに、ブルシット・ジョブを作り出してはそれを他人に割り当てるだけの業務が、たしかに世界中に数多く存在していることを彼は示しています。

 経済学者のケインズは、今から90年前に、20世紀末には週15時間の労働で社会がまわることを予期しましたが、残念ながらいまだそういった世界には至ってはいません。それどころか、世の中には格差や分断、こどもの貧困率や世界の不均衡ばかりが目につきます。人は文明を手にして世界は豊かになりましたが、その分配方法やこれからの世界の制度設計は、現代人に課せられたもっとも有益な仕事だと言えるでしょう。