国技創造-相撲はいかにして国民的スポーツとなりえたか|世界でエンタメ三昧【第98回】

国技創造-相撲はいかにして国民的スポーツとなりえたか|世界でエンタメ三昧【第98回】

ヤクザの福利厚生だった相撲が、昭和天皇のお陰で「国技」として確立

 相撲は日本最古ともいえる国民的スポーツです。古代から始まり、7世紀にはすでに天皇が観覧していた記録もありますし、8~11世紀あたりは展覧行事「相撲節」として天皇御用達の競技にもなりました。ですが、武家・幕府の時代になって宮中が混迷期に入る12世紀以降は断絶します。このあたりは伎楽など古代邦楽・舞楽と同じような変遷をたどっており、その後室町から戦国にかけて能や茶が庇護される時代に相撲は民衆のものとなっていきました。歌舞伎と同様に相撲が再び歴史に姿を現すのは17世紀、江戸時代になってからの話です(信長が相撲を好み1500人の力士を並べ立てた事例などもありましたが)。

 現在の相撲に通じる文化はこの400年前、江戸時代のものからはじまっています。「勧進相撲」として寺社仏閣への寄付集め、営利目的の相撲が流行するようになり、腕っぷしの強い相撲取りは任侠博徒(ヤクザ)と同類相通じるがごとしで、博徒の用心棒のように使われているころでもありました。なぜ江戸時代からヤクザが相撲興行を取り仕切るようになったかは所説ありますが、経済的動機というより労働者を多く抱えていたヤクザが社員の福利厚生のために相撲や落語その他の興行を支援していた、という側面もありそうです。大人数を抱える組織は娯楽がなければチームマネジメントができなかったということでしょう。

 歴史は長いが、必ずしも「お上品」ではなかった相撲。それがいまの「国技」のポジションについたのは実は最近の話。西洋化が急がれた明治時代には「裸踊り」「国辱的催物」といった誹りまで受け、旧時代の象徴として退けられていましたが、形勢が変わってくるのは1900年代に入った日清・日露戦争後。軍事的に西欧にも勝るとも劣らぬことが証明された日本は、自信を取り戻し、むしろ経済的・文化的に日本の独自性を強調できるものを改めて取り入れ始めます。それこそが日本古来よりの競技「相撲」で、国辱的とまで言われたこの競技が1909年に大角力常設館を「国技館」と命名したところから相撲も含めて「国技」と呼称されるようになります。1000年以上の歴史があっても、現在ある位置づけに祭り上げられたのはまだこの100年の話なのです。

 そうはいっても相撲自体がすぐに「お上品」になるわけもなく、今日まで続くような八百長問題、力士の品格や健康・衛生管理などの杜撰さが問題視されるなかで、1917年国技館焼失とともに一時の相撲ブームもすぐに沈下。救世主となったのが1925年の裕仁皇太子(のちの昭和天皇)にちなんだ摂政宮賜杯で、これを契機に東京と大阪の角力協会合併、現在の日本相撲協会が出来上がります。時代は第35代の伝説の横綱、双葉山の全盛期。1936~39年までの69連勝は現在もなお破られていない相撲史上の最多連勝記録です。この1930年代に相撲はまさに国技として大ブームとなり、日本全国どころか満州や台湾の小中学校の校庭にまで「土俵」がつくられました。

 思えば昭和天皇は様々なブームの火付け役でした。1959年の巨人対阪神の天覧試合では長嶋茂雄のサヨナラ本塁打という劇的勝利がその後のプロ野球ブームの契機にもなりましたし、何より大の相撲ファンだった昭和天皇は1955~79年まで毎年1回、80~84年は年2回、85年から逝去するまでは初場所・夏・秋と年3回も観覧するほどのファンでした。1925年の相撲再興のきっかけをつくり、70~80年代にテレビと相撲の関係性を作り上げたのは昭和天皇あっての話といっても過言ではありません。天皇が好んでみる競技、ということでメディアの取り上げ方も、国技館で人々が観戦する態度も一層違ってきたのがこの数十年の傾向でした。

1980〜90年代、若貴ブームと相撲絶頂時代。潤沢な放送料

 1989年昭和天皇崩御により相撲は半世紀以上にわたる強力な庇護者を失いますが、すでにテレビとともに一時代を築いてきた角界は1960年代の柏戸・大鵬、70年代の北の富士と玉の海、北の湖、そして80年代の千代の富士のウルフフィーバーのなかで期待の新星、若貴兄弟を迎えます。業界のサラブレッド一家から生まれた兄弟、特に貴花田が90年夏場所に17歳最年少で入幕、19歳最年少で幕内優勝と記録を更新する中で91年春場所の小錦戦は瞬間視聴率52%と驚異的な数字をたたき出します。92年宮沢りえとの婚約、94年に横綱、兄の若乃花も98年に横綱となり、史上初の兄弟横綱が誕生します。2人と共にあった相撲絶頂時代はこの1989年から約10年間の97年夏場所まで。「史上最長の大入り満員」時代でした。

 実は横綱は勝てば成れるわけではない特別な称号です。「2連続優秀、またはそれに準ずる成績をあげた力士」とあり、品位も含めて認められた選手にしか与えられない称号で、曙(64代)、貴乃花(65代)、若乃花(66代)から、実は朝青龍(68代)・白鵬(69代)から現在の照ノ富士(73代)まで、若貴時代からの20年たった今までに生まれた横綱は7人しかいません。そのくらい希少な存在だったことを私自身今更知りましたが、武蔵丸・若乃花・貴乃花・曙の4横綱が在籍していた1999年以来だと実は約20年ぶりに2017年のみが白鵬・日馬富士・鶴竜・稀勢の里の4横綱が同居していた時期で、今現在は照ノ富士の1人横綱時代でもあります。

図1. 相撲協会の事業別売上・利益

 必然的に相撲市場が最も潤っていたのはこの1997年前後と2017年ということになります。図1は相撲協会の収入推移ですが、97年150億でおよそ100万人の来場者からの100億円入場料。そこから若貴引退となる2002年以降には100億円まで落ちますが、ここで驚異的なのは継続している年間25~30億円という放送権収入。これは全盛期で年間200万人以上も動員する読売ジャイアンツと同レベルの収入で、直近数値は非公表ですがおそらく現状でもパリーグ6球団の合計放送権料よりも大きく、最近の読売ジャイアンツが20億以下であることを前提とするとNHKからの盤石な支援あっての相撲協会、という財政が見えます。国技館の会場貸出は以前の2〜3億に比べると7〜8億と収益化できるようになり、広告・物販売上も5億程度と安定、そこに寄付金5億あたりで、直近20年はなんとか100億サイズを保ち続けています。80年代半ば、中曽根総理は「日本で一番の優良企業」と相撲協会を評し、当時の国技館建設費150億円もポンとキャッシュで払えるほどの組織でした。

実は割のよいアスリート競技、引退後の待遇保障もリッチ

 ですが、盤石な財政で隠されていた「相撲協会と相撲ビジネスの課題点」は、07年時津風部屋の新弟子暴行事件、2003年から超長期横綱政権を築いた朝青龍が一般人への暴行で引責引退となった2010年、そして同年に大関・琴光喜の野球賭博と名古屋の親方と暴力団の関係性が暴かれたあたりで完全なる逆風下で初めてスポットライトがあたります。相撲協会は年100億円超の費用のうち約半分は人件費ですが、その50億のうち実は15億は100名の年寄(親方)の各人年収1500万の積み上げによるものです。売上の35%が選手である650名の力士に、という配分率自体は野球・サッカーと変わらぬものですが、むしろ30~35歳で引退した力士が親方となって定年65歳まで雇用される「年寄」への配分率はその高さも含め、他の団体には見られない現象です。この100名は固定で、昔はなり手が少なかったものの近年はその旨味もあり億を超える金額で売買・取引されるポジションにすらなっています。

 そもそも高校生の相撲競技人口が800名強、そこに毎年60〜70名が新規入所し、650名の力士となります。実は参入ハードルが低いこの業界、ほとんどが1〜2年で退所し(それでも1人面倒みると100万円/人の育成費が支給されるため、部屋はウェルカム状態)、年収1500万の関取(幕内・十両)になれる確率8%、年収2500万の三役(大関・関脇・小結)以上が2%、年収5千万~1億以上にもなる横綱は0.3%。全体1割の選ばれし選手たち、とはいっても入所者の半分が3年以内に退所することを考えると実は確率的にも待遇的にも、ほかスポーツに比べると「相当に生存率が高い」競技でもあります。体格を整えるための修練は確かに参入ハードルではありますが。この年収であれば1人あたりGDPが十分の一のモンゴルや東欧から選手が殺到するのもうなずけます。このサラリーマン的な保障給与はランクが落ちない限りは待遇保障されているため、「勝ち星」を売買して他の選手の待遇やランク上げの支援をすることにリスクが低く、「八百長問題」へと発展しました。

 さらに「茶屋問題」として国技館の入場チケットや中で振舞われるお土産などは20程度の「茶屋」の利権となっており、その茶屋自体が相撲協会の理事など関係者の親戚筋だという話もでており、この相撲業界全体のムラ社会性が大きく問題になりました。

 「国技」という祭り上げの陰で、NHKによる放送権料の保障と高齢化はするものの日本全国から100万人近くの観客という安定した収益基盤を、力士と力士出身者だけで運営される相撲ムラの課題は明白です。「年寄株問題」「八百長問題」「茶屋問題」、これらはこの10年は様々なメスが入っている最中、というのが現在に至るまでの動きです。2018年それらの打破も含めて改革派として理事長選に名乗りを上げた貴乃花は結果的に組織内での票はとれずに落選した様子は、まるで世間の認知と党内人気の落差で悩んだ河野太郎を彷彿とします。そんなわけで、コロナ禍でこの3年はそれどころではなかったという相撲協会もこの2020年代はそろそろ待ったなしでどう改革が進むかがまさに静止されるところとなるでしょう。