廃人か天才か― ニコニコ動画とボカロP|世界でエンタメ三昧【第97回】

廃人か天才か― ニコニコ動画とボカロP|世界でエンタメ三昧【第97回】

廃人と天才が「泥船」から生みだしたニコニコ動画

 すべては「ニコニコ動画」から始まりました。ドワンゴがDwango(Dial-up Wide Area Network Gaming Operation)として米国でオンラインゲームのサービスとして生まれたのが1994年。日本に進出した1996年に、フランチャイズ権をもっていた(当時ソフトバンクと競っていた)ソフトウェアジャパンが倒産し、京都大学を卒業し同社で1991年から働いていたエンジニアの川上量生が個人としてドワンゴを設立したのが1997年。彼が29歳の時のことでした。Bio_100%という天才プログラマー集団と親交があり、彼らを合併して引き入れたことがドワンゴの競争力の源泉でしたが・・・

 正直初期のドワンゴは「戦略」も「戦術」もない、〝オンラインゲームにハマった廃人たち〟が巣食う、ギリギリ会社の体を保ったサークルといった趣です。1998年にリリースされる『セガラリー2』の通信部分はドワンゴで創られましたが、この案件の最中も電話回線での通信代月100万で会社がつぶれそうになったり、とんでもない(技術はスゴイが経営は)素人の集団が水面下の〝デスマーチ〟的な開発で、ようやく仕上げていたような感じでした。いつ訴えられても、いつ潰れてもおかしくなかったほど脆弱だった、と当時を知る人は言います。

 ちなみにドワンゴに続いてひろゆきこと西村博之が米国留学中に2ちゃんねるを創設したのが1999年。2003年に上場したドワンゴでは「反社会的な」ひろゆきとの付き合いを証券会社など株主が嫌がる傾向があり、子会社を経由して川上氏が半ば個人的な付き合いで、2005年に携帯向けサービスとして西村の「に」をとってニワンゴを設立(ドワンゴ75%、未来検索ブラジル20%出資)、これがニコニコ動画を生み出します。以前このあたりの経緯は「まぐまぐ」メルマガの創設者深水氏へのインタビューでも書きました(https://gamebiz.jp/news/347604)。

 2000年代前半はiモード周辺事業と着メロ・着うたでドワンゴは一気に成長し、売上150億越え、利益率も20%を超える好業績企業に変貌します。ただ2005年ごろから潮目が急激に変わります。定額制による通信料の低下、音楽レーベルとの契約条件の見直しなどでPC・インターネットは10代を中心に急激に普及、モバゲータウンやGREEが急激に普及する中で、着メロ事業は採算が悪化します。着メロ依存度9割だったドワンゴは一転危機に陥ります。

 「いまさら動画サービス立ち上げたって(2005年2月リリースの)YouTubeには敵わないよね…」というスタンスだったドワンゴで、ニコニコ動画は完全にトップダウンで〝創業以来の大赤字、何か新しい事業が必要だから〟で生まれた事業です。(非同期でも参加できる)バーチャルライブ―エイベックスと提携したばかりのドワンゴが起死回生で出したこのアイデアがニコ動の原型です。といってもアーティストもコンテンツも用意できないから、(Googleには何も知らせずに)YouTubeから動画をひっぱってきてそこにSynvieというテキストのチャット機能を実装し、アーティストを呼んで非同期のライブをやっちゃおうよ、という発想でした。掲示板ビジネスでは先行者だったひろゆきの意見も取り入れ、ニワンゴの事業として開始したのが2006年12月でした。

 すでに10年以上オンラインの世界に〝巣くって〟いた川上氏は、当時日本で同期/非同期のオンラインとは何かを考え極めた当世一代のネット哲学者でもあったと思います。

「しょうがない」サービスが火をつけたクリエイターエコノミー

 「(ドワンゴもニコ動も)海に出た瞬間沈んでたはずの泥船だった」と、やねうらお氏は表現します。ゲリラ的な動画サービスにYouTubeは約3か月後の2007年2月にアクセス規制します。その時も多くのエンジニアが「火事場のクソ力」よろしく、9日間で自前の動画共有を立ち上げます。自分たちが救わないと、ドワンゴはいつ潰れるかわからない、というのが当時社内エンジニアやファンが、このサービスに「加担していった」理由でもあります。

 当時のニコ動はYouTube含めたGAFA系Web2サービスと真逆の設計思想でした。「ニコ割ゲーム」といって勝手にランダムでゲームに切り替わって強制的に参加させられ、点数が上位でクリアするとその直前にみていた動画とともにランキングにさらされる。突然時報がわりこんで「ニッコニッコ動画~♪」と誰の得にもならないCMが流れる。2012年から毎年開催されるニコニコ超会議は黒字になったことがない。そもそも、荒削りのベータ版サービスだからつっこまれても「しょうがないよね」のゆるさを表現するために、当時はやっていた消費者金融のニコニコローンからモジった冗談のようなネーミングとアイコンで始まったサービスです。

 「理解されがたいものを作る」「儲かるとか市場規模ではなく、壮大な物語になるものをつくる」「突っ込みどころの多いUIにしていく」、こうした姿勢は川上氏(やひろゆき氏)の人柄や思想が存分に発揮されており、それこそが「ボカロP」を惹きつける不思議な不思議な日本だけのサービスとなったのです。

 今となっては成長過程にあった2008年ごろ、社内的にはある種絶望感もあった時代です。利用者は(限界点とみられていた)1000万人なのに月525円のプレミアム会員は30万人、これでは年18億円のサーバー代くらいにしかなりません。結果的には2015年の250万人越えのピークまでは伸びるのですが、このころにはすでにコンテンツの趨勢も決まっていて、〝ニコニコ御三家〟と言われたコンテンツは「萌え系」に集中します。すなわちアイドルマスター、東方Project、そしてボカロの初音ミクでした(ちなみに「~P」という呼び方はアイマスから派生して出来上がりました)。

 ニコ動から遅れることわずか9カ月、2007年8月に北海道のDTM(Desk Top Music)ソフトを開発していたクリプトンフューチャーから3人目のボカロキャラクター「初音ミク」が生まれます(ボーカロイド=ボーカル+アンドロイドは2003年にYAMAHAが商標登録した概念)。当時すでに10万人程度はいた「ソフトで音楽をつくる人々」は、80年代末から20年以上もこのニッチなソフトを駆使しながら、デジタルな音楽を展開していましたが、いかんせん〝発表の場〟がなかった。『DTMマガジン』(1994~2016、寺島情報企画)と『サウンド&レコーディングマガジン』(1982~、リットーミュージック)、この2大雑誌がメインの情報源だった時代です。

 1.5万円で買えば「自分が顔出し・声だし・レコーディングしなくても発表できる」というボカロソフトは、それまで1千本うれれば上出来だった世界で、「初音ミク」は1万本の大ヒット。3年たった2010年半ばで5.6万本ということで、当時日本には数万人程度のボカロPがいたのではないかと言われています。

マージナルな存在だったボカロPと米津玄師

 ボカロPという存在が一般に膾炙したタイミングはいつでしょうか?もともと知っていはいたけれど、最近よく耳にする、というのは実はアフターコロナの時代ではないでしょうか?

 当時初音ミクのボカロで楽曲を発表していたハチこと米津玄師こそが、アングラだったボカロPをスターダムに押し上げた最初の人、とも言えます。彗星のごとく現れた…ように見えた米津は1991年生まれ、大阪芸大付属の専門学校のタイミングの2009年には楽曲をあげたり、ゲーム実況したりといったニコ動で活躍しはじめます。バンド活動と並行してやっていたニコ動で2011年までには「マトリョシカ」など10万以上あがっていた初音ミク・ボカロ動画のなかで、70ほどの100万再生動画を提供する「トップボカロP」でした。

 2013年にユニバーサルからメジャーデビューするも、彼の楽曲が噂になりはじめるのは2017年に『3月のライオン』『僕のヒーローアカデミア』『打ち上げ花火、下から見るか?横から見るか?』など人気アニメに楽曲提供したあたりでしょうか。2018年3月の8thシングル「Lemon」はTBSドラマ『アンナチュラル』の主題歌になり、同年12月にNHK紅白歌合戦にも登場します。地上波での生出演、歌唱は謎に包まれていた米津にとっても紅白が初めてのことでした。2020年には元ボカロPのAyase擁するYOASOBIが、2021年にはまふまふが出場し、「紅白登場するボカロP」の流れが定番化していきます。

 米津玄師のYouTubeチャンネルは600万人登録を超えていますが(国内16位)、驚異的なのは全部で81本「しかない」動画で再生された43億回という数字。1本動画あたり5000万回再生されるリピート率はダントツで日本一であり、アーティスト界隈のなかでも最も注目を集めるトップクラスでしょう。

 そんな米津が「ハチ」として2009年にボカロPとして登場したのは決して早かったわけではありません。2007年10月「【ネギ踊り】みっくみくにしてあげる♪【サビだけ】」を作った「ika(鶴田加茂)」はボカロPの始祖のような存在であり、現在Supercellで活躍する「ryo」や作品を発表しつづけYouTube登録も120万いる「DECO*27」、そして「mothy_悪ノP」のように作家・マンガ原作者としても活躍しているボカロPもいます。ボカロPのほとんどは1990年代生まれ、10代の多感な時期にニコ動とネットで育ったアーティストたちが現在20~30代になって日本の音楽シーンを支えています。

 ハチいわくボカロは「クズたちの受け皿として機能していた」。ほとんどがバンド崩れの音楽家で、オルタナティブな選択肢としてボカロという選択肢をとったに過ぎない。だがそんな「しょうがない」ニコ動という場所で「しょうがない」アマチュアが創ったボカロは、いまや1500万人ほどの視聴者がいて、97万作品がネットにあげられています。

 特に『東京大学「ボーカロイド音楽論」講義』で鮎川ぱてが喝破するように、この市場は顔出し・声だしをしないという特性上、生きづらさを背負っていたマイノリティの人々に「生き場」を与えました。ボカロP(のみならず現在のVTuberに至るまで)に発達障害、ADHD、セクシャルマイノリティが多いのは偶然ではないでしょう。

 東大生にマイノリティが多いのも実は偶然ではありません。「学歴」というある程度平等な基準で選考されるステージは、見た目や性格、社会性といった曖昧模糊とした恣意的な基準で苦しむ人々にとっては救いとなります。「ボカロ」というデジタルの力で平等な基準で選考された世界は、そういった〝自分を持て余す〟人々にとっては格好の活躍の場となります。ゲームやeスポーツもそうですし、昨今のVTuberブームもまた同じでしょう。

 「2チャンネルをつくったら、うちの国だったら死刑ですよ」。あるアジアの国の人が言った言葉です。これほど日本という場の優位性を表す言葉はないように私には感じられました。ニコ動も2チャンネルも、日本という「ゆるい」磁力のなかでしか生まれえなかった、「しょうがいない」サービスです。だからこそ「しょうがいない」とみなされる逸材に場を与え、世界中どこにもない作品が、生まれてくるのです。