家庭用ゲーム興亡記(1)任天堂とセガとソニー|世界でエンタメ三昧

家庭用ゲーム興亡記(1)任天堂とセガとソニー|世界でエンタメ三昧

1983年―乱世大航海時代の家庭用ゲーム

 日本では家庭用ゲーム機がこの20年間、毎年1千万台売れてきました。これはルームエアコンよりも多く、テレビと同じくらい、最近ではPCと変わらない出荷台数でもあります。もはや家電の1つとも言える普及率を誇るゲーム機ですが、もともとは「おもちゃ」の一種であり、1台のハードウェアを赤字でも大量に売りさばいてプラットフォームにし、そこから複数のソフトを追加購入してもらうことで収益化するモデルが普及すると、おもちゃ業界そのものの1兆円規模に迫る勢いで成長してきました(これは携帯を安く流通させて、その後の定額利用料で儲けるキャリアと全く同じですね)。そのゲーム機ハードは「世代」といってゲーム機の性能・バージョンによって分類されており、特にファミコンが生まれた1983年の「第三世代」はものすごい量のハードが生産された時代でもあります(図1)。

 世界的なブームであったAtari2800は3千万台を売り、アタリはゲーム業界の開祖でありましたが、あまりにチープなソフトが粗製乱造されるあまりに大量のユーザー離れを招き、3千億円近くあった市場が突然100億円まで縮む「アタリ・ショック」が1983年に起こります。まさにその間隙を縫って業界を制したのが「任天堂ファミリーコンピューター」でした。世界6千万台、ソフトも900種類と段違い。1985年の1千億円から1990年の6千億に世界ゲーム市場をけん引した任天堂は、ついにその9割を独占する超大手企業に変貌します。

 そうはいってもこの時代はまさに乱世肝雄が跋扈する大航海時代。本当に多くの業界から参入を招いていました。「アーケードゲーム」のセガ/コナミ/ナムコ/タイトー/カプコン、「PCゲーム」のコーエー/イマジニア/エニックス/スクウェアだけでなく、「玩具」のマテル/バンダイ/エポック/タカラ/トミーからはじまり、「電機メーカー」のNEC/シャープ/パナソニック/カシオ/東芝/リコー、「出版」から学研/アスキー、「TV・音楽・映画」でバップ/ビクター/フジテレビ/ポニー/東宝/東映、「アニメ」でガイナックスなどもありますね。現在からみると、こんな会社もやってたの!?と驚くような事例ばかりです。

 第3世代で数十種類のハードが出されますが、任天堂と伍して戦えたのは1千万台を売ったNEC&ハドソンの「PCエンジン」と8百万台の「セガ・マークⅢ」くらいなもので、そのくらい2位以下とは大きな差がありました。

 ハードの歴史において1980〜90年代を彩るのは任天堂VSセガでしょう。SG1000(1983)、マークⅢ(1985)、メガドライブ(1988)、セガサターン(1994)、ドリームキャスト(1998)とセガほど精力的にプラットフォーム化を目指したメーカーはその前にもその後にも生まれていません。

 セガが最も任天堂を脅かした時代はメガドライブでしょう。3千万台を売ったこのハード、実は国内の3百万台よりも特筆すべきは「ジェネシス」の名前で北米2千万台に到達していたことです。〝旧態依然〟とした子供向けファミコン×マリオに対して、〝クール&スピーディ〟な大人向けのジェネシス×ソニックというブランディングに成功し、北米でのゲーム業界シェアは1990年の9(任天堂)対0.5(セガ)から、1993年に5対5と同格以上のレベルにまで成長します(日本だとセガのシェアは15%でそこまで脅威にはなりえませんでした)。

 セガはもともとマークⅢ時代に任天堂に大敗し、トンカに販売権売却し北米展開を諦めたような状況でしたが、中山隼雄がマテル出身のトム・カリンスキーに北米展開の全権を委任したことから反撃が開始されました。その経緯は『セガ vs 任天堂』に詳述されていますが、個人的にものすごく好きな下りは、トムが日本本社に渡航して米国でのマーケプランを提案し、取締役会の全員から反対を受けた会議。意気消沈してこれはもうダメだと思ったトムに中山が放ったのは「トム、ここにいる誰もが君の言っていることには何一つ賛同していない。実のところ、誰もが君は頭がおかしいと考えている…しかし、私が君を採用した理由はまさにそこにあったのだ。君の計画通りに進めてよろしい」というちゃぶ台返し。

 本書は中山隼雄のアクの強さ・人柄について存分にその数々の武勇伝を書いてますが、その創業者としてのけん引力と予想外の動きは驚愕の一言(海外も縦横無尽に移動し、ダイレクトでいろいろな人材をハンティングし、あっという間にクビにしたりと、とにかく彼の影響力の強さに驚くばかりです)。確かにこんな情熱をもち、誰からも畏れられる創業者でもない限り「任天堂の神経を逆なでしないように誰もが息を殺して生きているこの業界で、セガだけが直接対決の挑戦状をたたきつけた」ということはできなかったのだろうと察します。

 こうしたセガの逸話に並び劣らぬのがこのプレイステーションの開発秘話です。第72回でいかにソニーが北米の音楽・映画業界に参入し、ゲーム事業が後世に影響したかはすでに書きました。共同開発していた途中で任天堂から決裂を申し渡され、自社だけで推進するか、ゲーム事業に参入しないべきかで議論が大きく揺れ動いていました。正直スーパーファミコン(SFC)で任天堂の独占度はさらに盤石になっており、次にくるセガサターンとの一騎打ちとも言われた時代。新参者のソニーへの期待の声のない勝ち目のない戦い。それまで多くの家電メーカーが失敗してきたことも輪をかけます。大賀会長というほぼ創業者のような意思決定者がいなければ、まだ若手で社内に敵も多かった開発者久夛良木のこのプロジェクトに乗っかる判断はできなかったでしょう。

 PSの成功は流通戦略の成功でもありました。それまで任天堂が問屋を大事にする〝玩具流通〟で、大量受注のディスカウントやリベートも多く、店舗でのゲームに価格差が生じたりといった統制できない状態がありました。半年前に受注を締めなければいけなかったり、任天堂へ高額な委託生産費があったり、不満が多い中で「それでもファミコンが一番儲かるから」とメーカーがソフトを提供してきていました。そこにゲーム素人なソニーがレコード・CDの音楽流通のように一度ソニーで全数仕入れをし、小売店に直販する体制が提案されます。問屋を通さない直販方式は、売上額の4〜5割といった小売・問屋マージンを、2〜3割まで圧縮し、その分ソフト開発や広告宣伝費に投資させる余剰も生み出します。こうした流通から大きく改造するソニーの戦略は多くのゲームソフトを呼び込み、それがPSの販売につながっていくのです。

 家庭用ハードにとって、ビジネスの肝はユーザーの信用と協力者であるソフトメーカーの信用なのです。ユーザーからはこのハードを買った後もよいソフトが出つづけるのか、無駄にならないかという信用、そしてソフトメーカーもまた、このハードで売ることが多くのユーザーに届けられるのか、自分たちの収益をきちんと確保できるのかという信用。鶏とたまごのように、どちらをも信用させて立ち上がっていかないと持ち上がっていかない。それまでの東芝やパナソニックのハード展開の失敗は、「ハードできちんと収益を確保して、そのあとソフトが乗っかっていけば」という家電の売り方に近かった。むしろハードは撒き餌のようにどんどん広げ、あとからのっかってきたユーザーとソフトメーカーの間でビジネスを回収していかなければいけないのです。

 90年代後半からの10年はまさにソニーの時代でした。PSは結果1億台という家庭用ゲームのギネスを突破、集まったゲームソフトも3200種類とSFCの2倍以上。これまでの任天堂寡占に不満をもってくすぶっていたメーカーが殺到する大活況となりました。セガサターン、ドリームキャストの失敗と、同時に任天堂のバーチャルボーイ、続くNINTENDO64の不振。PS2はDVD搭載という家電メーカーならではの判断が当たり、その勢いを加速させた1.5億台という前人未到の販売数。まさにゲーム業界の寵児が生まれた瞬間でもありました。

 この任天堂とセガ、そしてソニーと続く群雄割拠の時代で、ゲーム業界は現在でいうGAFAのような時代を彩る最先端業界へと変貌します。それはアーケードゲームがもっていた、暗く狭いゲームセンターでタバコをふかしながら光る画面と格闘するようなアングラなイメージではなく、お茶の間のテレビの前で人々が芸術ともいえる映像を自らコントローラーで動かす、映画業界やテレビ業界とも伍してわたるようなテクノロジー産業へと進化していったのです。

 家庭用ゲームは当時「ゲームが遊べるPC」でした。実は任天堂ブームが起こった国は、その後のPC普及が遅れているという分析もあるのです(これが後々にマイクロソフトのゲーム業界参入にもつながっていきます)。1990年に米国ではPC所有1割に対してゲーム機所有率3割でした。逆に任天堂の展開が遅れたイギリスなどの欧州各国ではPC普及がもう少し早く、両者が併存するような状況が起こってます。また当時のゲーム開発エンジニアの中にはその後グーグルやアマゾンに行って成功している人もおり、デザインなどのアート方面でもゲームからハリウッドの映画業界にという人もいます。そのくらい90年代の家庭用ゲーム機というのは最先端であり、エンジニア・デザイナーの大いなる実験場であったと言えます。ところが…ここからは実は下り坂と試練の時代であったともいえます。それについてはまた次回!