【迷い、歩き、自分と向き合うお遍路を描いた映画『あるく』】片岡志帆監督 インタビュー|#トロントを訪れた著名人 |トロント日本映画祭

【迷い、歩き、自分と向き合うお遍路を描いた映画『あるく』】片岡志帆監督 インタビュー|#トロントを訪れた著名人 |トロント日本映画祭

トロント日本映画祭で上映されたドキュメンタリー映画『あるく』。監督、プロデューサー、撮影、編集のすべてを一手に担ったのは、京都近郊の小さな村に生まれ、四国に深いゆかりを持つ家庭で育った片岡志帆監督だ。自らも歩きながら、四国八十八ヶ所を巡る人々との偶然の出会いをカメラに収めた。人生への迷いや苦悩、「これでいいのだろうか」という問いを抱える巡礼者たち。最初の撮影から完成まで10年以上。監督自身が「映画制作自体が10年にわたる巡礼のようなものだった」と振り返る長い道のりの先に、何が見えたのか。お遍路、瞑想、そして「自分を知る」ことについて聞いた。

『あるく』という作品づくりも、一つの巡礼だったのか

お遍路には、一人で歩いていても弘法大師・空海と共にあるという「同行二人」の考え方がある。結願という結果だけでなく、歩き続ける時間そのものにも意味があるとされる。
 片岡監督もまた、仕事への葛藤を抱える中で本作を撮り始め、完成まで10年以上の歳月を費やした。

――振り返ると、『あるく』という作品づくりそのものが、監督にとって一つのお遍路のような時間だったのではないでしょうか。その長い道のりの中で何か答えを見つけたのか、それとも、自分の中にあった問いとの向き合い方が変わったのでしょうか。

そうですね。おっしゃられたように、本当にこの映画制作自体が、10年にわたる巡礼のようなものになったので、本当に学びが多かったです。

もともとは映画監督を目指して映画学校にも行きました。でも、映画監督として仕事に就くことはなかなか難しく、テレビの仕事をするようになりました。たくさんの番組を作らせてもらい、多くの経験を積めたことには本当に感謝しています。

ただ、もともとの目的は自分の作品を作ることだったので、『自分の映画を作りたい』という気持ちはずっとありました。

30代から40代にかけて、お遍路を作品にしようと思い始めました。試しに自分でカメラを持って回ったとき、本当にいろいろな人と出会い、不思議な出来事もありました。『弘法大師様と一緒に歩いている』というような感覚を持つ経験もあって、『こういう形で映画を撮れたら面白いんじゃないか』と思い、撮影に出ました。

今回は、本当に行き当たりばったりで、偶然出会った人たちとの「チャンス・エンカウンター」で映画を作るというチャレンジでした。

ただ、撮れたものを見て、「これは本当に面白いんだろうか」「映画になるんだろうか」という不安がありました。テレビのドキュメンタリーは、ある程度構成やストーリーが決まっています。でも今回は、まったく違う作り方だったんです。

予算もすべて自費で、編集にはかなり時間がかかりました。そうしているうちに、出演してくれたお遍路さんの一人が僧侶になったことを、たまたまインターネットで知ったんです。「これは、その後を撮るべきだ」と思いました。

最初の撮影は2011年です。その後、もう一度皆さんに会ってエピローグを撮ろうとしましたが、一度の帰国で全員に会えなかったりパンデミックなどもあり、なかなか撮影が進みませんでした。

映画祭にも送りました。興味を持ってくださる方は多かったんですが、実際に応募すると、どこにも入れなかった。当時はまだ2時間以上あったので、短くしてみたり、また長くしてみたり、本当に試行錯誤の繰り返しでした。

いろいろな人に観てもらいましたが、皆さんの意見も違います。最終的には自分でまとめなければならない。映画祭からのリジェクションもあって、「これは本当に面白いんだろうか」という気持ちのアップダウンもすごくありました。

最後は、自主上映でもいい、自分でお金を払って劇場で上映しようと思っていました。そんな中で映画祭に入選し、その後、オランダのCAMERA JAPAN FESTIVALでワールドプレミア上映されました。

初めて大きなスクリーンで観客と一緒に作品を観て、すごく心配していたんですけれど、反応がとても良くて、私自身も驚きました。

自分の中の自信のなさも含めて、本当に長い道のりでした。その過程でいろいろなことを学びましたし、自分自身も強くなったと思います。

祖母が三度歩いたお遍路

©2025 – ARUKU 歩く(CJ 2025)

片岡監督にとって、お遍路は幼い頃から身近な存在だった。祖母も三度、お遍路を経験していたという。

――監督のお祖母様も、お遍路を三度されたとうかがいました。一度ではなく、何度も巡礼へ向かったお祖母様の姿を、この作品を撮った今、どのように受け止めていますか。また、お遍路へ向かった気持ちについて、何か見えてきたものはありましたか。

正直、祖母が生きているときには聞けなかったんです。とても信仰心のある人だったので、なぜかと聞かれると、やっぱり信仰心だったのかなと思います。

ただ、歩いて回ったわけではなかったと思います。信仰心と、あとは家族の健康を願う気持ちとか、そういうことだったのではないかと思います。

国や文化を越えて、人はなぜ歩くのか

 お遍路は日本独自の巡礼文化として知られるが、世界にもさまざまな巡礼の道がある。

――宗教や文化、育った環境が違っても、人はなぜか「歩きたい」と思うことがあります。監督はお遍路の巡礼者たちや、海外でこの映画を観た観客の反応を通して、国や文化を越えて共通する人間の姿を感じることはありましたか。

どうでしょうね。歩くということに関しては、世界中にいろいろな巡礼がありますし、それに興味を持っている方も多いと思います。オランダでも四国遍路を経験した方が結構いらっしゃいました。この間、ドイツのニッポン・コネクションで上映させていただいたときにも、「四国遍路をやりました」という方や、「私も歩きたいです」という方が結構いました。

映画を観ているときに、自分の人生と重なるところが、皆さんそれぞれにあったんじゃないかと思います。反応は一人ひとり違います。「この人の言っていることがすごく響いた」という人も、それぞれ違うんです。

でも、そこで少しでも自分の人生と重ね合わせて、「歩きたい」とか、「自分もやってみたい」と感じるものはあるんだと思います。そこは、国を越えて共通するものなのかもしれません。

「自分の人生は、これでいいんだろうか」

かつて「巡礼」には、人生の苦悩や迷いを抱えた人が向かうものというイメージもあった。近年は、デジタルデトックスやウェルビーイング、メンタルヘルス、スピリチュアルな体験など、さまざまな文脈で語られるようになっている。一方、『あるく』に登場する人々からは、それぞれが言葉にしきれないものを抱えながら歩いている姿が見えてくる。

――監督は、彼らと向き合う中で、お遍路をする人たちに共通するものを感じましたか。

もちろん、それぞれ違うんですけれど、多分、『今の自分の人生に満足できていない』というところは、共通してあると思います。
でも、お遍路を歩くことで、自分が今持っているものに対して、すごく感謝するようになる。

苦悩や問題は人それぞれです。でも本当は、「これで十分」というか、「生きているだけで丸もうけ」じゃないですけれど、生きているだけで本当は十分なのかもしれない。

それでも、何か足りないと思ってしまうのが人間なんですよね。私自身もそうです。何かにチャレンジしたい、やりたいことがある。それ自体はいいことだと思います。

共通点があるとすれば、「自分の人生はこれでいいんだろうか」と思っていることなのかもしれません。
本当に悩んでいる人もいますし、何度もお遍路を回る年配の方は、人生の後半に来て自分の人生を振り返りながら、「人生とは何だったんだろう」と考えて歩いているのかもしれないと思います。

カメラの前で生まれた葛藤

 『あるく』は、巡礼者の美しい姿だけを切り取った作品ではない。撮影されることへの苛立ちや、監督との間に生まれた葛藤も、そのまま作品の中に残されている。

――登場する皆さんには、それぞれにドラマがありました。特に女性の方が、最後の方で撮影に対する苛立ちを口にする場面は、とてもリアルに感じました。

あれは、本当に彼女の中でも葛藤があったと思います。最初は「撮ってほしい」という気持ちもあったと思うんですけれど、撮影を続けるうちに少しずつ機嫌が悪くなっていった。それは私にも分かっていました。
撮影は3、4日ずつを3回くらい繰り返していたんですが、最初は機嫌よく歩いていても、2日目、3日目になると、どんどん機嫌が悪くなっていく。撮る側としては、かなりつらかったです。

でも、彼女自身もすごく葛藤していたんだと思います。最後に、その気持ちをきちんとカメラの前で言ってくれた。それはなかなかできることではないと思うんです。

撮影がそのまま終わっても、それはそれで一つの話になったと思います。でも、自分の気持ちを正直にカメラに向かって話してくれたことには、本当に感謝しています。

禅、瞑想、そして
「自分を知る」ということ

 効率やスピードが求められる現代社会の一方で、禅や瞑想に関心を持つ人も少なくない。宗教的な背景は異なるが、「自分と向き合う」という点では、お遍路にも通じるものがあるのだろうか。

――スティーブ・ジョブズが禅から影響を受けていたことはよく知られています。シリコンバレーの経営者やビッグテックのリーダーにも、禅や瞑想に関心を持つ人がいます。

もちろん、お遍路とは宗教的な背景も異なりますが、静かに自分と向き合うという点では、どこか共通するものを感じます。禅や瞑想、お遍路など、人はなぜこうした営みに惹かれるのでしょうか。監督はこの映画を作る中で、その理由をどのように感じましたか。

やっぱり、自分に向き合うことが一番の解決になるんじゃないかと思います。瞑想もそうですね。いろいろな方法がありますけれど、基本的には自分に向き合い、自己観察をする。それはすごく大事なことだと思います。

2008年、ちょうど四国遍路のロケハンをした年くらいに、体験者の友人の話からヴィパッサナー瞑想に興味を持ち、でもなかなか時間が取れなくて、2019年に母が亡くなったことがきっかけになり、2020年の2月ごろ、京都のセンターで初めてコースに参加しました。10日間、誰ともしゃべらず、ひたすら瞑想するという体験をしました。そのときも、自分に向き合い、自分を観察するということを続けました。

私はまだ瞑想を深く理解しているわけではありませんが、「自分を知る」ということが一番大事なんじゃないかと思うんです。

人には潜在意識のようなものがあると思います。でも、自分ではなかなか気づかない。瞑想では、「どうして私はこうなるんだろう」と自分自身を観察します。

例えば、私自身、座っていると足がすごく痛くなったことがありました。その痛みをずっと観察していたら、あるとき痛くなくなったんです。それで、これは頭から来ている部分もあるんじゃないかと思いました。

自分が思い込んでいることは、たぶん誰にでもたくさんある。瞑想をすると、「これは自分がそう思っているだけで、本当の自分の姿ではないのかもしれない」と気づくことがある。そういうものを観察できるのが、瞑想なのかなと思います。

もちろん、私は宗教を深く勉強したわけではありません。仏教の教えの中で好きな部分はありますが、「仏教徒ですか」と聞かれたら、そこまで勉強しているわけではないので、仏教徒とも言えないと思います。

迷っている人たちへ

 『あるく』に登場する巡礼者たちは、それぞれに迷いや問いを抱えながら歩いている。トロントにも、日本を離れ、新しい環境で自分の道を探す人は少なくない。

――この映画を観ながら、自分の若い頃を思い出しました。ワーキングホリデーやバックパッカーの旅、ピースボート、海外でのボランティア。形は違っても、悩み、迷いながら自分の道を探すことは、決して特別なことではないのだと思います。

トロントにも、ワーキングホリデーで来た若者や、大人になって日本を離れ、この土地で自分の道を探している人がたくさんいます。今まさに、自分の進む道に迷っている人たちへ、監督ならどんな言葉をかけますか。

リラックスして生きればいいと思うんですよね。

すごく悩んでも、結局、やりたいことがあれば自然にやると思うし、物事はそういうふうに進んでいくんだと思います。

私も若い頃は、「こうしたい」「どうしてこうならないんだ」と、いろいろなジレンマがありました。でも結局、どうあがいても、自分はそういう道に進んでいく。自分の道というか、なるようになるんだと思います。

「起こることには、すべて理由がある」という言葉がありますよね。私は本当にそうだと思っています。
だから、あまり考えすぎず、自分の心が望むものにチャレンジしていけば、何かしらうまくいくと思います。

【プロフィール】 片岡志帆(Shiho Kataoka)
1993年に渡米し、ニューヨークのスクール・オブ・ビジュアル・アーツ(SVA)で映画制作を学ぶ。卒業後はNHK、FCI、CCTVなどのテレビ番組制作に従事。2005年に自身の制作会社Some Days Films(旧Cucumber Productions)を設立し、テレビ番組制作と並行して作家活動を本格化。2009年にNHKのドキュメンタリー番組のエピソード『病院のラジオ局』『たのしい放課後理科クラブ』で米国テリー賞を受賞。『あるく』では監督、プロデューサー、撮影、編集を手掛ける。