日本映画の新しい夜明け|カナダのしがないラーメン屋のアタマの中 第46回

日本映画の新しい夜明け|カナダのしがないラーメン屋のアタマの中 第46回

ラーメン屋だけど映画の話をするわけ

 先日、濱口竜介監督の映画「ドライブ・マイ・カー」が、アメリカのアカデミー賞で国際長編映画賞を受賞しました。本作は、フランスのカンヌ映画祭や日本アカデミー賞でも高い評価を得ており、日本映画の成り行きをここカナダから気にかけている身としては嬉しい限りです。

 どうしてラーメン屋が映画について書いているのか、と思われた方もいらっしゃるかと思いますが、実は、もう10年以上前のことですが、渋谷のミニシアターで映写技師として勤めるかたわら、映画の道を志していたことがあります。当時、濱口監督や主演の西島秀俊さんを映画館で偶然見かけたこともあり、お二人の活躍に触発されて、何かこれについて書いてみようという気になりました。

「ドライブ・マイ・カー」

 内容に関しては、抜群に面白いのでぜひ見ていただきたい、という一言に尽きますが、本作のアカデミー賞での快挙が、必ずしも日本映画の勝利ではない、といった意見もあるようです。というのも「ドライブ・マイ・カー」は、いわゆる王手の制作会社、配給会社や広告代理店が製作委員会を立ち上げて大きな予算が組まれて作られた、というものではなく、ビターズ・エンドという中堅の製作、配給会社を中心に、そこそこの予算で作られた映画です。

 そういった意味では、確かにこの作品は「日本映画」を代表していないし、この指摘は的を射ていると言えます。ただこの指摘の的外れなところがあるとすれば、作り手が映画を作るうえで、「日本映画」を代表する必要も、ましてや「日本」を背負う必要もまったくないのでは、というのが正直なところです。

 むしろ、前述のような大手の製作委員会方式で作られた映画は、十分な予算によって制作や宣伝にお金を掛けられるといったメリットはありますが、この俳優を使わなくてはいけない、スポンサーに配慮しなくてはいけない、何なら、脚本にもいちいち口を出される、といった弊害も大きいように思います。

 それによって作り手の描きたいテーマやストーリーが薄れるくらいなら、「ドライブ・マイ・カー」のように、低予算でも挑戦的で、何より描きたいことをやりたいように撮れる方が面白い作品になるのでは、と思ってしまいます。

日本国外で評価される「日本」的な要素とは

 そもそも、これまで日本国外で評価されてきた、黒沢清監督、青山真治監督や是枝裕和監督の作品を見ると、決して潤沢な予算で撮られているわけではなく、しかし、「ドライブ・マイ・カー」のように、力強く普遍的なテーマを新しい手法で撮っている、という印象を受けます。もしかしたら、そういったゲリラ的な手法やそこから立ち現われてくる何かこそが、日本国外で評価される「日本」的な要素なのかもしれず、濱口監督には、ぜひこのまま「日本」を背負わず、新しい地平を切り開いていってほしいものです。

 立場上、こういった成功の裏にはどういうからくりがあるのか、そしてそれをどのように抽象化してラーメン屋としての戦い方に活かすことが出来るのか、といったことを考えてしまいます。ただ、映画業界を志していた過去の自分に免じて、そんな野暮ったいことはせず、今回はこのあたりで幕を引きたいと思います。