日本人でもなければ日系人でもない我々は誰?|バンクーバー在住の人気ブロガー岡本裕明

日本人でもなければ日系人でもない我々は誰?|バンクーバー在住の人気ブロガー岡本裕明

 日本の歴史を振り返ると海外移住は決して前向きな意味合いではなかった。戦前戦後の悲しい話を背景に抱えていることは多い。だが今、我々は幸いなことに好き好んでカナダに住んでいる。日本在住の人から見ればうらやましがられることも多いだろう。ではなぜ、カナダだったのだろう。我々カナダに住む者にとって単に日々の生活を楽しむだけでよいのだろうか?少し考えてみよう。

2020年度「世界最高の国ランキング」
カナダが2位、日本が3位

 アメリカのUSニュース&ワールドレポートで2020年度の「世界最高の国ランキング」が発表され、スイス、カナダ、日本の順であった。19年はカナダが3位で日本が2位だったが我々としては世界でもっともランクの高い国からもう一つのランクの高い国に移り住んでいるという恵まれすぎている環境にあると断言してよいだろう。

 ちなみにこのランクの上位10カ国は全部先進国でアジアからは日本だけがランクインしている。この手のランキング発表は種々様々あるのでこれだけをもって断言することはできないが、少なくとも我々が享受しているメリットは大変大きいものであり、感謝すべきことだろう。

 私は19歳の時、初めて行った外国が英国で2カ月ほど過ごしたが、正直、文化のギャップがあまりにも重たく、その違いにもがいていた。その後、すぐにアメリカのニュージャージーに行き、行き来を繰り返しながら学生時代に通算半年以上は過ごした。東部アメリカは英国の重たさに比べて我々の文化に耳を傾けてくれる寛容さがあり、私も必死にアメリカを学んだのが印象的であった。

 その後、私は真冬のソ連、ベルリンの壁が残る東ドイツ、はたまた戒厳令下のポーランドに単身、卒論の研究のために訪れたのだが、情報開示や国民のもつ知識がコントロールされ、偏りがあることに心底驚かされたものだ。

 我々がもっともありがたく思わねばならないのは情報開示と選択の自由であろう。欲しい情報は何でも手に入る。様々な考えの人がそこにいて自分と同質な人を見つけることはさして難しくない。同じ趣味や同じ価値観を持ったグループが一つのチカラを発揮できる機会があることにはすさまじく恵まれているはずだ。

 例えば開かれていると思われる韓国はどうだろうか?私は世情国家だと思っている。時々の流行や世論に多くの人が流されるだけならまだいい。問題は自分と敵対する相手をひどくバッシングし、暴力沙汰が起き、時として人を自殺にまで追い込む。これは開かれているとは言えない。開いていてもある選択肢を強要されているようなものだ。中国に至っては開いてもいないから選択肢の存在すらわからない。

では開かれた日本で育ち、カナダで更なる刺激を受けた我々はどこに向かうのだろうか?

 実は私はこの数年、ある課題にぶち当たっている。日本人と日系人である。この定義をするのは必ずしも容易くないが私はパスポートが一つの決め手だと思っている。日本人の国籍を維持しているのか、カナダの市民権を取得したか、である。人によっては両方持っている方もいるだろう。日本人を捨てられないからかもしれない。私はいくつかのケースを知っているが、両方持っていることが発覚したとき、多くの人はカナダを選択しているようだ。理由は生活拠点がカナダにあるからということだろう。

 かつて、ある日系人から言われたことがある。「私は日本の政府のために必ずしも同調しない。カナダ人としてカナダの政府を尊重する」と。私の課題とはここにある。我々にはメンタルな意味でのデュアル シチズンシップという選択肢はないのかと。要は器が狭く感じるのだ。日本もカナダも重要なはずなのにまるで踏み絵のごとく選択をしようとしている。

 私の知り合いにロシア系カナダ人で大きな会社の創業者がいる。彼は毎年驚くべく金額をロシアの自分の出身地に寄付として送金している。それはカナダで稼いだお金がロシア、そして自分の出身地がもっと繁栄してもらいたいと願う気持ちなのだという。同様の送金はメキシコ人もフィリピン人、イラン人も非常に多いことで知られる。

カナダに住む我々は誰なのか、答えは一つ。
国際人のはずだ。

 二つ以上の国の歴史、文化、社会、経済を知り、人間社会があるべき姿を考え、よりよくする知恵を持っているのが私の国際人の定義である。
 とすれば日本で育ち、あるいは日本人の血を持ちカナダで活躍する我々はもっとオピニオンリーダーとしてカナダと日本に貢献すべきではないかと思っている。

 私はバンクーバーのマルチカルチュラルな集りで他国出身の人からよく言われることがある。「なぜ、日系人の議員さんはいないの?」と。今、我々の社会では議員一人すら排出できない弱さがある。日本人と日系人は何万人もいるのに一つになれず、価値観を共有できないまま、自分の生活の満足感に浸っている。

 日本人社会で趣味の団体やアソシエーションは星の数ほど生まれている。それはお仲間意識なのでお友達関係を育むにはよいだろう。だが、そのサル山は他と融合せず、時として他の団体と敵対する構図になっていることに私は大いなる懸念を感じている。度量が狭いと思わないだろうか?サル山も10も集まればそれなりの存在感は示せるのに、とつくづく思う今日この頃である。