活字が読めない子供たち|バンクーバー在住の人気ブロガー岡本裕明

活字が読めない子供たち|バンクーバー在住の人気ブロガー岡本裕明

 新聞も書籍も雑誌も「いけてなーい」という一言で隅に追いやられ、漫画に動画に写真が情報市場を席巻する。感性に訴え、理解しやすい動画や画面と音声の組み合わせに「文句があるのか」と反論されるだろう。ネット記事すら読まず、SNS上にある情報だけで知った気になっているあなた、それ、結構やばいかも、です。

短文のやりとりは頭を悪くする

 日本でiモードの携帯電話が浸透し始めた99年から2000年代、携帯やスマホを通じたメールとテキストのやり取りが主流となりはじめた。いかに早く返事をするかが女子高生あたりでは友達関係を維持できるかのキーワードとなり、LINEの返信をいち早くしないものならKYのレッテルを張られるようになる。そのため、若者たちの携帯やスマホのテキストは機関銃のような連打状態となり、我々おっさんにすれば返事のテキストを打っている間に2つ3つぐらい続きのテキストが来て、文脈がもう全然合わない時差コミュニケーション時代が到来していたのは私だけだろうか?

 その頃、名前は忘れたがある学者が警笛を鳴らした。短文のやりとりは頭を悪くする、と。私はそれに鋭く同意し、自身のブログでも短文の繰り返しはバカになるから気を付けるべきだと今日に至るまで何度も指摘してきた。何故バカになるかというと「短文のピンポン」はほとんど数単語の羅列に過ぎず、相手の質問に動物的反射神経で返答しているだけだからだ。つまり頭をまるで使っていない。

 例えば「腹減った!」「何か食おう」「何がいい?」「駅前のバーガー」「それよりケーキは?」「賛成」…といった具合なのだが、これは人間の思考回路まで到達しなくてもやり取りできる本能的反応なのである。そして困ったことに最近のやり取りはほとんどがこの様になり、おまけに写真や動画で説得させるようになっている。

ポータルサイト、ネットメディアの情報の質を問う

 私が学生の時、大学の教授が「野球を見るならテレビとラジオのどちらが良いか?」と問うた。多くの学生はテレビを選んだが、教授の答えはラジオだった。理由は音声を通じて野球場を想像し、アナウンサーの興奮具合や息づかいをとらえ、頭の中で野球場にいる自分の目線で聴く方がより想像力を掻き立てるからだ、という。なるほど。

 我々は情報化社会にあるのだが、個人的にはいくつかのフェーズに分かれて発展してきたと考えている。インターネット黎明期の頃はネット情報は既存のメディア媒体の補助的役割でしかなかった。これがしばらくするとネットメディアが紙媒体から取って代わられるようになる。ところが媒体の数が莫大なものになり読者が読みこなせなくなる。そこで3行ぐらいで全体を説明するといったおまけがつくようになる。

 次に多くのインターネットニュースはヘディング(タイトル)に奇抜で気を引く強烈なものを打ち出し、本文とタイトルがアンマッチすることすら生じた。最近では聞いたことがないようなネット媒体がいかにも長年ビジネスをやっているようなそぶりで専門そうな内容の記事をばら撒いている。

 問題はそのニュースや情報の質である。私のようにネット情報を様々な分析材料にする人間にとってポータルサイト系のニュースは読む価値はほぼゼロに近い。残念ながら内容が無いのである。私はネット情報やニュースなどは有料配信のきちんとした媒体や情報の出典元など極力一次情報ないし、それに近いものを取り寄せている。

 ポータルサイト系の情報はほぼ二次、三次情報ばかりで元の情報に対してそれらのメディアが編集方針に基づいてどれほど重みづけをしたのかわからなくなっている。例えばコロナの情報ならば毎日新規感染者数が〇人と発表される。だが、どのメディアもその日の死者の数や重篤者の数は発表しない。理由はニュース性にアンバランスが生じるからだ。

 三桁の新規感染者がいれば「こんなに悪い」「これは注目に値する記事」という価値づけを行えるが、仮に「だけど死亡者も重篤者も激減中」となれば読み手の興味は「なーんだ、大したことないんじゃない」ということになる。これをメディアによる情報切り取り加工というのだが、当然ながら私は純粋な情報を分析してこそ、本当の意味があると考えている。

活字に戻ることの価値と意味

 ネット時代突入後の活字が読めなくなった子供たちは既に40代半ばに差し掛かるはずだ。活字を読む癖がないため、もはや、1ページの紙すら読むことができない。彼らはそれをみて「うざい」といい、「だから何?」とせっつく。だが、YouTubeなら何時間でも見ていられるし、インスタの写真にあぁでもない、こうでもないと反応できる。

 活字が読めなくても死ぬわけではない。だが、私は人間としての生まれ持った能力は最大限引き出すべきだと考えている。寝る、食うの繰り返しは動物と同じであり、視覚聴覚中心であれば原始時代の狩猟民族と同じである。彼らは獲物を得るため、視力が2.0以上あり、動体視力が発達していたとされる。聴覚も優れていた。それは生きるため狩猟をしたために発達したからだ。だが、我々現代人はゲームをやり過ぎ、YouTubeを見過ぎて視力が悪化し、イヤフォンで聴力も悪化している。世話がない話だ。

 ならば悪くなることばかりしないでせっかくの脳みそを思考のために使い、より明瞭な頭脳を維持できるよう活字に戻ることも一理ありそうだ。我々は技術や便利という名の手のひらの上でコロコロと生かされているだけだと気が付くべきであろう。