トロント日本映画祭で上映された呉美保監督の『ふつうの子ども』。日本の子どもたちの日常を描いた本作は、海外の映画祭でも上映され、国や文化を越えて子どもから大人までさまざまな反応を生んできた。チェコでのワールドプレミアをはじめ、各国の観客に作品はどう届いたのか。子どもたちの世界、父親像、レインボーの消しゴム、タトゥーに込めた演出など、作品づくりの背景と海外での反響について呉監督に聞いた。
大人と子どもの世界は、実は地続き
呉美保監督は本作について、大人の目を通した懐古的な子ども像は描きたくなかったと語る。一方で、映画に登場する子どもたちの姿を見ていると、昆虫を捕まえ、駄菓子屋に通い、秘密基地を作っていた、自分たちの子ども時代を思い出す。時代が変わっても、子どもたちの本質には変わらないものがあるようにも感じられた。
――監督は本作について、大人のノスタルジーを描こうとした作品ではないとお話しされています。一方で、私は映画を観ながら、自分の子ども時代を見ているような感覚になりました。
今の子どもたちを取り巻く環境は大きく変わっていますが、それでも観客が自分の子ども時代を重ねてしまうのはなぜなのでしょうか。また、監督は時代が変わっても変わらない子どもたちの本質を、どのように意識して描かれたのでしょうか。
まさに狙い通りというか、「昔はよかった」ということは絶対にやりたくなかったんです。そういう意味で、ノスタルジーとして描かないということでした。
子どもを題材にした映画では、よく「子どもが成長する」という描き方がありますよね。ラストシーンで少し前向きになって終わるような。でも、この映画ではそういうこともしたくなかった。ある種、投げっぱなしというか、観た人にモヤッとしたものを突きつけるくらいの感じで終わりたいと思っていました。
大人の観客は、最初は「子どもってかわいいな」「バカだな」と思いながら観ているんです。でも、後半に向かって、牛のくだりあたりから、特に子どもを育てている人たちは、いつの間にか自分自身が子どもの側に入っている。
「子どもってバカだな」と観ていたはずなのに、後半ではなぜか自分がその子どもになって、映画の中に没入していた、という感想を本当にいろいろな方から聞きました。それは、まさに私がやりたかったことです。
大人と子どもの世界は、実は地続きなんですよね。iPadを使ったデジタル学習など、環境や技術は進化しています。でも、自分が子どもを育てながら気づいたのは、子どもの世界で起きていることや、子どもたちがやっていることは、昭和生まれの私たちが子どもの頃と何ら変わらないということでした。
大人として社会生活を送っていると、いろいろな人間関係があります。大人になると忖度したり、相手を思いやったり、逆に裏表を使い分けたりするようになります。でも、子どもはもっとダイレクトじゃないですか。
その中で失敗して、学んで、大人になっていく。ただ、人と人とがぶつかる瞬間そのものは、大人も子どももそれほど変わらない。大人の方が間にフィルターが入るだけで、根本の部分は地続きだと感じています。
そうした大人と子どもの間にある、垣根のなさのようなものを描きたいと思っていました。
父親という存在と日本社会

本作では、母親たちが子どもの日常や感情に寄り添う一方で、父親たちは少し距離を置いた存在として描かれている。その姿からは、日本の家庭に残る役割分担や、仕事と子育てを取り巻く社会の構造も見えてくる。
――監督はこれまでのインタビューでも、母親像について語られることが多い印象があります。一方で、この作品では父親たちの存在も気になりました。日本では今も、仕事の忙しさなどを背景に、父親が日常の子育てを母親に任せがちになる家庭が少なくないと思います。劇中でも、父親は不在ではないものの、母親とは異なる距離から子どもに関わっているように見えました。監督にとって父親とはどのような存在なのでしょうか。また、この作品の父親たちには、どのような役割を持たせたのでしょうか。
昭和生まれの私が見てきた父親像と比べると、今は育児にきちんと参加しているお父さんが断然多いです。むしろ、父親が育児をしなければ家庭が成り立たない社会になってきていると思います。私には子供が二人いるのですが、小学校の学校行事や運動会など、土日に行われる行事には、ほとんどのお父さんとお母さんが一緒に来ています。
でも、「やっぱりまだまだだな」と思う部分もあります。平日の保護者会や、親が参加しなければならない先生との面談になると、父親が一人もいないんです。東京でもそうなので、地方ではもっとそうかもしれません。
私はその現実を見ているので、そこをきれいに描きたくはありませんでした。ただ、それは男性だけの責任というより、社会の責任でもあると思います。父親が時間をつくることができない。育児に入っていくことを難しくしている働き方や価値観があり、社会の流れがまだ十分にできていないんですよね。
公園でも、土日になると、子どもを連れてきているお父さんはたくさんいます。絵としては、父親が子どもと公園に来ている。でも、全面的に一緒に遊んでいるお父さんは、それほど多くありません。お母さんが美容院へ行ったり、家のことをしたり、やりたいことがあるから、「今日はお父さんの担当」という感じで連れてきたのかなと思うような姿もあります。ベンチに座ってスマートフォンを見ていたり、黙って子どもの後ろをついて歩いていたり。私は自分の子どもを公園に連れていきながら、そんなことばかり見ていました。
海外の映画祭などへ行くと、子どもに対するアプローチが少し違うとも感じます。それは子どもに限らず、人と人との距離感の違いかもしれません。
例えば、まったく知らない人とすれ違うときにも「おはよう」と声をかけたり、目が合うだけでニコッと笑ったりするじゃないですか。日本では、そういうことはあまりありません。むしろ、知らない人が子どもに声をかけると、不審者のように受け取られることもあります。
男女間の距離感や、子どもと父親との関係も含め、まだまだ日本にはそういう部分があると思いました。
自分自身のことも含め、子どもを持つと家族のステージがだんだん変わっていきます。それぞれに仕事が大変だったり、育児が大変だったり、いろいろな思いがある。でも、その大変さを完全には共感し合えない。そうした日本社会の現状や、家族の中にあるちょっとしたストレスを注ぎ込みたいと思いました。
レインボーの消しゴムに込められたもの

子どもたちの小さなグループをつなぐアイテムとして登場する、レインボーの消しゴム。レインボーは、世界的に多様性や違いを認め合うことの象徴として用いられる。しかし、この映画では、そのレインボーが「仲間だけが持てるもの」として描かれている。その対比がとても印象的だった。
――レインボーという色は、世界的にもLGBTQ+や多様性を象徴するものの一つです。トロントのような多文化都市で暮らしていると、劇中の描かれ方の対比がとても印象的でした。あのレインボーの消しゴムには、どのような思いが込められていたのでしょうか。
脚本には『消しゴム』とだけ書かれていました。撮影準備の段階で、美術スタッフやプロデューサーと一緒に、『どんな消しゴムがいいだろう』と考えました。消しゴムは、もしかしたら見過ごす人もいるかもしれない。でも、ちゃんと観てくれる人には、面白く受け取ってもらえるんじゃないかという、いろいろな狙いを込められる小道具でした。
女子の三人組が持っていて、心愛という女の子も、たまたま同じものを持っていた。その消しゴムを何にするか考えたとき、タイトルが『ふつうの子ども』であることもありましたし、今回は子どもの映画をカラフルにしたいという思いがありました。扱っているテーマは比較的シビアです。でも、いろいろな子どもたちが、いろいろな色の服を着ている。小物や美術にも、たくさんの色を使っています。
多様性という意味でも、「まさにレインボーなんじゃない?」と美術スタッフと話し、あの消しゴムになりました。
唯士の目に映ったタトゥー
劇中で印象的なのが、唯士が心愛の母親の首元にある月と太陽のタトゥーを見つめる場面だ。タトゥーが身近なトロントのような都市と、日本とでは、このシーンの受け止め方も異なるかもしれない。
――心愛のお母さんのタトゥーも象徴的でした。トロントをはじめ、海外ではタトゥーは一般的なものです。一方、日本の観客にとっては、あのタトゥーから母親の背景を想像したり、唯士がそれを見つめる場面に、さまざまな意味を感じたりすると思います。監督は、あのタトゥーを通して、心愛のお母さんの人物背景や生き方をどのように表現しようとされたのでしょうか。また、海外の観客はあの場面をどのように受け止めているのでしょうか。
去年、ニューヨーク・アジアン映画祭で上映したときに、「あのタトゥーは何だったの?」と聞かれました。あの映画祭は、バイオレンス作品など、比較的刺激の強いジャンルを好む観客も多い映画祭です。私としては狙い通りでもあったのですが、日本でタトゥーをしているとどのように受け取られるかという価値観は、日本独特のものですよね。
そのときは、少し説明しました。今は日本でも以前よりカジュアルになってきていますが、少し前までは、タトゥーはヤクザなど特定の人たちが入れるものだという印象が強かった、と。でも、私が描きたかったのは、彼女がヤクザだったということではありません。主人公の唯士から見た彼女を描きたかったんです。
唯士にとって、あの瞬間は、完全にカオスな空間です。「何なんだ、この人は」という感じで、むしろ怖がって見ているわけですよね。自分の母親にはもちろんタトゥーはありませんし、恐らく唯士にとっては、タトゥーを間近で見るのも人生で初めてだったと思います。周りにもそういう人はいなかったでしょうから。
彼女がタトゥーを入れるような人生を歩んできたのかどうかはさておき、唯士がそれを見たとき、ただでさえ「この人、ちょっとヤバい」と思って見入っている。その奥にあるものとして描きたかったんです。
タトゥーは小さな月と太陽の柄です。その前には揺れるイヤリングがあるので、タトゥーが直接はっきり見えるのではなく、イヤリング越しに少し見えるようにしています。唯士からすると、ブラックホールではないですけど、「えっ、何、あれ?」という感じです。本人には何の意図もなくても、自分だけが何かに気づいてしまったかもしれない。そのちょっとした恐ろしさを描きたかったんです。
タトゥーのバックボーンについては、ヤンキーだったということではなく、若い頃にワーキングホリデーで南の島へ行き、10代後半から20歳前後のときに、ノリで入れたくらいのカジュアルなものだと考えていました。
海外の観客にたくさん観てもらえる道をたどれていることは、とてもありがたいです。その中で、「日本ではこういうものが、このように受け取られるんだ」ということを知ってもらえるのも面白いと思っています。
グレタ・トゥーンベリさん
本作は、プロデューサーがグレタ・トゥーンベリさんのスピーチに刺激を受けたことをきっかけに企画が動き始めたという。当時少女だったグレタさんの行動は世界中で大きな反響を呼び、その後も環境問題にとどまらず、さまざまな社会課題への発信を続けている。呉監督は、その歩みをどのように受け止めているのだろうか。
――本作の英語タイトルにもなっている『How Dare You?』という言葉で知られるグレタさんのスピーチは、世界的なムーブメントを巻き起こし、多くの若い世代にも影響を与えました。その後、彼女自身も成長し、環境問題にとどまらず、人権をはじめとするさまざまな社会課題について発信を続けています。監督は、グレタ・トゥーンベリさんという存在をどのように受け止めていらっしゃいますか。
私はグレタさんのことを直接知っているわけではありません。恐らく日本に情報が届くまでには、いろいろなフィルターがかかっているでしょうし、報道の中の真実がどこまで届いているのかも分かりません。ですから、限定的なことは言えないんですけれども。
ただ、彼女が最初に行動を起こしたときのスピーチには、恐らく偽りはまったくなかったと思います。当時、彼女は中学生くらいでしたよね。そこから成長して大人の社会に入り、アクティビストとしてさまざまな活動をするようになった。報道を通して、時には極端に見えるような行動を知ることもあります。
それを見ていると、社会を知っていくことや、自分の周りにどのような人がいるのかによって、人生はこんなにも左右されるんだなと、老婆心ながら思うことがあります。
私自身も親元を離れ、社会に出て、いろいろな人に出会ってきたからこそ、今の自分があります。そういう意味では、自分の子どもたちにも、いい人に出会ってほしいと素直に思います。
子どもも大人も、国を越えて楽しめる映画に

「ふつう」の基準は、暮らす国や社会、家庭によって異なる。トロントのような多文化都市では、異なる価値観や背景を持つ人々が日常を共にしている。だからこそ、日本の子どもたちを描いたこの物語が、国や文化を越えてどのように受け止められるのかが気になった。
――「ふつう」の基準は一つではありません。特にカナダは、さまざまな人種や文化的背景を持つ人々が暮らす、多様性に富んだ社会です。監督は、この映画のどのような部分が国や文化、人種を越えて伝わると考えていらっしゃいますか。また、海外で暮らす子どもたちや家族に、この作品を通してどのようなことを感じてもらえたらうれしいでしょうか。
この映画が最初にワールドプレミア上映されたのは、チェコのズリーン国際映画祭でした。世界で最も歴史のある子ども映画祭といわれている映画祭で、コンペティション部門に選出していただきました。最初の上映を、チェコの子どもたちと一緒に観たんです。そのときの感覚が、すごくうれしかったんですよね。
この映画は、子どもも大人も一緒に楽しめる映画をつくりたい、というところから始まっています。『そういう映画は日本にあっただろうか。あまりなかったよね』と、監督である私とプロデューサーで話していました。
グレタさんのことも含め、日本の国内的なことを描きながら、世界に向けたエンターテインメントをつくりたい。それは少し皮肉も含んだものではありますが、そういう作品をつくりたかったんです。
チェコで上映したとき、子どもたちは映画を観ながら、声を上げたり、話したり、突っ込んだりしていました。『これは本当に世界共通なんだ』と思えました。一方で、きちんと自分の言葉を持っているとも感じました。それぞれが自分の意見を口にし、みんなで感想を言い合える。そういう姿を見て、作品が伝わっているという実感がありました。
日本で親子上映会を行ったときも、子どもたちが熱く語ってくれました。『あの子たちは、その後どうなったんですか』と聞いてきたり。そうしたことができる映画は、なかなかなかったと思うんです。日本での劇場公開自体は終わりましたが、これからは配信や、世界各地での単発上映などを通して、長く誰かに観続けてもらえる映画であってほしいと思っています。
日本公開からまだ1年も経っていませんが、時間を経て、こうしてトロントで上映していただけるのは、とてもありがたいです。これからも、日本を描きながら、世界の人たちに共感してもらえるものをつくっていきたいと思っています。

スクリプターとして映画界入り。初の長編脚本『酒井家のしあわせ』でサンダンス・NHK国際映像作家賞を受賞し、2006年に同作で映画監督デビュー。『オカンの嫁入り』(10)で新藤兼人賞金賞、『そこのみにて光輝く』(14)でモントリオール世界映画祭最優秀監督賞を受賞し、米国アカデミー賞国際長編映画賞日本代表に選出。『きみはいい子』(15)も海外で高く評価された。2児の出産を経て映画制作に復帰し、『ぼくが生きてる、ふたつの世界』(24)を監督。映画のほか、執筆やCMも手掛ける。

