東京のはしっこ、奥多摩|紀行家 石原牧子の思い切って『旅』

 アメリカではコロナ感染で街がロックダウンされる前に避暑地に家を借りて隔離生活に入った富裕層がいる。仕事はインターネットで、レクリエーションはハイキングやスポーツで、と羨ましい限りである。ならば我らも、と避暑地まではいかなくても東京内を西へ、西へと進んでいった。日帰りの奥多摩だ。

 中央線を走る青梅線の最終駅が奥多摩駅。ちょっぴりエキゾチックな建物だ。普段は若者客でごった返しているはずの駅前は閑散としていたが、バスはきちんと時間通り我々を待っていた。自国に戻れなくなったらしい外国の若者がソロで来ている。バスの運転手に流暢な日本語で行き先を聞いている。緊急事態宣言が解除された今、いても立ってもいられなくて新鮮な空気を吸いにやって来たに違いない。私たちと同じだ。顔にマスク、バックには消毒液と殺菌お手拭きをいつでも出し入れできる体制は出来ていた。

甲州裏街道「奥多摩むかし道」

小河内ダムのために作られた奥多摩湖
小河内ダムのために作られた奥多摩湖

 向かったのは「奥多摩むかし道」、東京の青梅と山梨県の甲府を結ぶ9キロの歴史ある甲州裏街道だ。ハイキングコースは奥多摩駅が出発点になっているが、逆回りでまず奥多摩湖方面のバスに乗った。奥多摩湖の駐車場が閉鎖されているため、バスは奥多摩湖には停車しない。結局少し前で下車して歩くことに。見ると道路の反対側に不思議な階段がある。上りきると廃線になった線路に出た。埋もれかかった線路伝いに歩くと昭和27年と書かれたトンネルに出くわした。小河内ダム建設用の資材を運ぶ電車線路だ。

昭和27年建設の資材運搬用電車トンネル
昭和27年建設の資材運搬用電車トンネル

 「奥多摩むかし道」に入る前に奥多摩湖とダムの見学に立ち寄る。駐車場は閉鎖されていたが人の立ち入り禁止のサインはどこにもなかったので階段を登り湖へと出た。多摩川がダムのために堰きとめられてできたのが奥多摩湖(別名小河内貯水池)だ。隣接する神奈川県と山梨県と地元民らの交渉に時間がかかり、完成に19年を要したダムだが、東京への水の供給は現在約1割と言われる。監視員に一礼してダムの上を歩くことができた。ここは小学校の遠足の場所としてよく使われ、普段なら子供たちのはしゃぎ声で賑やかなところだ。

風情豊かな東京の一部

家の前に積み上げられた薪
家の前に積み上げられた薪

 「奥多摩むかし道」は山道ではあるが、舗装された道路、ゴロゴロした石の道、ふんわりした落葉の道、階段、とバラエティに富んでいる。ことに目を見張るのは民家の佇まいだ。都会ではもう見られないトタン屋根、暖房用に積み上げられた薪、民家の庭や道に咲く可憐な野草、山の急斜面に密集して建つ部落、これが東京の一部であるという事実。崖の上に切り開いた猫の額ほどの畑に自給用の野菜を植えている。

正面に渓谷、裏は道路トタン屋根の民家
正面に渓谷、裏は道路トタン屋根の民家

 私が注目したのは日露戦争(明治34~5年、朝鮮半島と満州の支配権争いで日本の勝利)に参加した地元出身と思われる陸軍兵、木越安綱高中将の功績を讃える存在感のある記念碑だ。石碑は115年たった今も、令和のハイカーたちに日本の歴史を囁くかのように静かに建つ。

日露戦争の凱旋記念碑
日露戦争の凱旋記念碑

清々しい空気の中でピクニック

 湖を眺められる高台に座って弁当を食べた。「むかし道」は山中では休憩所もコーヒーショップも全くないので食べ物、飲料水持参は必須。ガイドブックでは〝一度に3人まで〟とある吊り橋も今は老朽化のせいか2人まで。ゆっくり渡り橋の中程で目前の緑一色の世界に一瞬自分を溶け込ませる。橋のたもとでフランス人家族3人がピクニックをしていた。念のため聞いてみた。〝2人まで〟というサインは読めたようだ。

 奥多摩駅に戻る頃には喉が乾き切ってアイスクリームが無性に食べたくなった。なんと、降りた時には気付かなかったアイスクリームの看板が構内に。2階にカフェがあったのだ。有難い。入り口には「マスクをしていない方は店内に入れません」のコロナ勧告。安心して階段を登り店内へ。ミュージックバンド用のステージがあるところを見ると普段は若者客が多いのだろう。美味しいアイスクリームとコーヒーのご褒美を体全体で味わっている間に汗が引っ込んだ。帰りの始発電車の出発まではもう少し時間がある。

足元を飾る雑草の花
足元を飾る雑草の花