南米ペルー(1)マチュピチュ インカの叡智と悲哀|紀行家 石原牧子の思い切って『旅』

南米の代名詞のようになったペルーのマチュピチュ(Machu Picchu)。ペルー人によって発見されたものの、一躍有名になったのは1911年に米国の探検家ハイラム・ビンガムが訪れインカ遺跡として発表してからだ。日本の歴史でいえば室町時代の宝物が明治の終焉に発掘されたに等しい。世界が騒ぐわけだ。毎年100万人の観光客が来る。15〜16世紀に繁栄したインカ帝国は北はエクアドル南はアルゼンチン北部にまで及び、クスコを首都とした。9代目皇帝パチャクテイは理想郷をアンデスとアマゾンの間の奥地に設定。完成までに数世代かかったというから彼は見ていない。

階段がいっぱいあるが歩き易いマチュピチュの中心部
階段がいっぱいあるが歩き易いマチュピチュの中心部

標高3000mのマチュピチュ山を登って見ると分かる。ワイナピチュ山とマチュピチュ山をつなぐ尾根にあるこの理想郷は「空中都市」と言われるように宙に浮かんで見える。最盛期には500〜750人ほどの人口がいたと言われるが、マチュピチュの目的は一体何だったのか。 発見当時の技術で解明不可能だった謎が徐々に明らかになった。スペインの侵略後400年間の眠りから覚めた遺跡はその不思議なパワーを今も放っている。

岩の芸術作品
岩の芸術作品
マチュピチュ山の登山道から見下ろす「空中の都市」
マチュピチュ山の登山道から見下ろす「空中の都市」

棚田状のアンデネスと呼ばれる耕作地がマチュピチュ全体の半分を占め、コーン、キノア、芋、ズッキーニ、豆、コカ茶、チチャ等が栽培されていた。一年中比較的温暖で平均気温は18度。アマゾンからは薬草等も入って来た。干ばつや災害に襲われた地域への食料支援はインカ道を通って輸送されたという。400年も雨の多い地域に放置されていれば建物も崩れ易くなるがマチュピチュの地盤は驚くべき排水設備が施されており、インカの叡智がマチュピチュの後世を守ったと言っても過言でない。

人の背丈程もある段々畑アンデネス
人の背丈程もある段々畑アンデネス

秋分春分を知る水鏡や、冬至に出来る陰の長さや差し具合を観察して季節の変化を感知するなど、まさに太陽信仰が生み出した暦だ。それによって農作業の開始時期の命が出されていた。農作物の研究、太陽観測、緊急時の食料貯蔵の役目も兼ね備えた実用的な神殿マチュピチュは皇族や貴族の避暑地・療養地でもあった。住民はインカ帝国の北、南、海岸地域から特殊な技術を持った職人、知識人等からなり、いわば文化村でもあったようだ。

私はマチュピチュの石造技術に完全に魅了されてしまった。硬い鉄鉱石でコツコツたたきながら花崗岩を削る気の遠くなるような作業は一世代で終わるはずも無い。隙間なく積み重ねるだけでなく地震で崩れないよう、レゴのようなはめ込みも作る。外から見る直線やなだらかな曲線はまさにアートの領域。永劫未来の美的感覚をインカの石造建築家は持っていた。コンドルが羽を大きく広げた様を表した作品は大胆で神聖そのもの。母なる大地の礼拝堂は巨石や様々な岩のシンフォニーとも言うべき傑作。その精妙さは見ていて飽きない。

左:地面にはコンドルの頭、黒い岩は広がった羽を表している 右:アグアス・カリエンテス駅(マチュピチュ村)に着くペルー鉄道
左:地面にはコンドルの頭、黒い岩は広がった羽を表している 右:アグアス・カリエンテス駅(マチュピチュ村)に着くペルー鉄道

幸いスペインは海岸部に重点を置いた為、山奥の遺跡の破壊は免れた。しかし1532年に13代目の皇帝アタワルパが処刑され100年続いたインカ帝国は滅亡した。惨いのはインカが交渉、贈り物によってその支配地域を拡張していったのに対し、スペインは金銀欲しさに武力でインカを侵略したことだ。しかしインカが滅びたのは殺戮やヨーロッパの疫病の為ばかりでなく馬や白人が彼らにとって神聖な物に写ったためではないか、という近年の説も有る。それに加え、私は文字文化がなかったことがネックだったのではないかと思う。つまり、密書を送ったり、契約書を交わす手だてもなかったこと自体、黄金郷と呼ばれたインカがいとも簡単に略奪されてしまった一因ではなかろうか。

最後に日本との深い繋がりについて。麓にあるアグアス・カリエンテス、通称マチュピチュ村の初代村長は福島県出身の野内与吉(1895-1968没)。労働移民として1917年にペルーに渡り、様々な復興事業を手がけ功績が認められた。色々な顔を持つマチュピチュは手応えある。