「転勤先の鹿児島で出会った妻と、カナダに移住」 山本 昌寛さん(カナダ在住歴13年)|私のターニングポイント第11回

 大学卒業後に入社した会社で初の地方勤務。不安ながらも慣れ親しんだ鹿児島の地でカナダ人の女性と出会い結婚。奥さまの帰国に伴いカナダに悩みながら移住を決意するものの、いざ住んでみると初のホームシックにかかる。今では多くの人と交流を持ちたくさんの人と接する山本さんだが、ホームシックから抜け出すきっかけは奥さまからの一言だった。

 新入社員として第一希望の会社に入社後、若いうちは地方勤務を経験してもらうということで、岡山支店に赴任しました。インターネットもまだそれほど普及していない頃、東京出身の私にとって、西日本は全く想像もつかない場所でした。住めば都と言いますが、岡山県は気候は良いし、食べ物は美味しくとても良いところでした。

 ただ、毎年の人事希望では、「これ以上西への転勤は希望しません!!」と記入していたにも関わらず、岡山に赴任して4年後に一番西にある鹿児島支店へ転勤の辞令が出てしまいました。初の九州上陸です。不安でしかありませんでした。

 ところが、やはり鹿児島も住めば都です。食べ物やお酒が美味しく、知り合いも多くでき、また釣りが大好きな私にとって鹿児島は天国でした。会社から2年おきに東京に帰らせてくれるという打診がありましたが、毎回お断りし(なぜかこの希望だけは通りました)結局6年間鹿児島に滞在することになりました。

鹿児島で運命の人となるカナダ人女性との出会い

 鹿児島に滞在中に、友人の紹介でのちに妻となるオンタリオ州ミッドランド出身のカナダ人女性と出会いました。鹿児島の葬儀場に勤めており、ご遺体の処理をするエンバーマー(Embalmer)として働き、その当時まだ日本にそれほど普及していなかったエンバーマーの育成も行っておりました。夕食を食べている際に、「今日こんなご遺体があってね」なんていう会話も頻繁にありました。食事中はやめて欲しかったです(笑)。

 私の性格は、保守的で石橋を叩いて渡るタイプ、それに対して彼女は全く反対の性格で、何に対してもすぐにオッケー!!と言ってチャレンジをします。日本に来た時も、仕事が決まり2週間後にはカナダを出発していたそうです。そんな彼女とお付き合いをさせていただき結婚に至りました。彼女は日本が大好きだから定年退職するくらいまで日本に住みたいと言っていましたが、カナダとは全く違う気候の鹿児島に身体がなじまなかったためか、頻繁に体調を崩し、結婚して2年後にカナダへ帰国する決意をしました。

妻の帰国決意に悩む。カナダにも家族がいると実感

 彼女が帰国を決意した際、私はかなり悩みました。ちょうど仕事が楽しくてしょうがない時でしたし、古い考えかもしれませんが、就職氷河期に苦労して第一志望で入った会社なので、定年まで働くつもりでいました。30歳過ぎてから生活の基盤も全くないカナダでの生活が想像できず、一緒にカナダに行く決断をするのに時間が掛かりました。岡山や鹿児島へ転勤するのとはわけが違います。言葉も違うし、国も違います。知り合いとも会えなくなります。

カナダに来たばかりの頃。甥との一枚
カナダに来たばかりの頃。甥との一枚

 そんな中、妻のお姉さんが妊娠して、私が叔父になることが分かりました。カナダに行っても、自分には家族がいると実感させられた瞬間でした。その後、カナダ行きの決断をし、2008年9月にカナダに来ました。甥は2008年4月に生まれましたので、私のカナダ滞在期間と彼の年齢は一緒です。それでもいまだにふとした時に、自分がカナダにいるのが不思議な感じがする時があります。

30歳過ぎの大人が初のホームシック

 カナダに来てから、妻がコーバーグという町で就職が決まり、そこに住むことになりました。周りには全く日本人の方がいませんでした。友人もおらず心を許せるのは妻のみです。とても良い町で住みやすかったのですが、町の夜は早く、レストランは午後8時から9時には閉店してしまい、季節も夏から秋に変わり徐々に涼しくなってきたと同時に、夏の楽しさが名残惜しくだんだんと寂しい気持ちが勝ってきて、とうとうホームシックに掛かってしまいました。高校生の時にイギリスの姉妹校に留学した際は、全くホームシックに掛からず、むしろもっと長く滞在したかったのに、30歳過ぎの大人がホームシックに掛かるとは思いませんでした。

 コーバーグで生活して半年が過ぎる頃、妻と私はトロントで就職が決まりました。
しかし、トロントに来てからもホームシックを引きずり、悶々とした日々を過ごしていましたが、ある日妻から「もっと外に出たら?!日本とは違う環境を楽しむべき」とアドバイスを受けました。

 その頃、恥ずかしながらカナダに来たのは、妻の都合で自分はただ頼まれて来ただけだという気持ちが残っていたので、何をするのにも受け身で自分から何かをするという気持ちをあまり持っていませんでした。それに全く違う環境での生活にいっぱいいっぱいだったので、気持ちに余裕もありませんでした。

 妻の一言にハッとしました。「そうか楽しんで良いんだ」と気づかされました。こんな単純なことですが、余裕がなくすっかり忘れていました。それから、機会があれば何かの集まりなどに参加して、率先して他の人との交流を増やす努力をしてきました。

いざ外にでてみると・・・

同じ年の集まり「76会」
同じ年の集まり「76会」

 色々な方と交流を増やしていくうちに、同じ年の方と知り合う機会がありました。その方から同じ年の方々が集まる会があると伺い、76会に誘われました。そこで驚いたのですが、トロントには同じ年の方が多くいらっしゃって、会を重ねるうちに人数も多くなりました。移民をされている方、駐在をされている方、留学をされている方など顔ぶれは様々です。

野球チームに参加した頃
野球チームに参加した頃

 その会で多くの方と知り合うことができたのですが、ある日、メンバーの方から草野球のチームを作るから参加して欲しいと誘われました。野球は小学生の時に少々かじった程度、ほとんどやったことがありませんでした。みんなに迷惑をかけるのではないかと心配でしたが、妻からの後押しもあり参加することになりました。

 いざやってみると楽しく、週末の野球そして毎年のシーズンが楽しみになり、さらに知り合いも増えていきました。これも妻からの「もっと外にでたら」というアドバイスがあったからこそ、知り合いや友人が増えて、トロントの生活を日本にいた時以上に充実させることができたと実感しています。妻にはとても感謝しています。

■ いまの自分に点数をつけるとしたら?

60点 行動する前に躊躇する癖があり、結局やってみたら良かったということが多々あり、かなり時間を無駄にしたと思うので。

■ もし人生をやり直せるとしたら、いつ?

 高校生。高校でのイギリス留学時代(若かったころ)に、もっと努力して英語を勉強するべきでした。

■ 学生時代のエピソード

 小中高校と剣道部、大学はスキー部に所属し、勉強よりも部活動に情熱を注いでいました。

■ 人生で大切なことは?

 感謝すること。人は色々な方から支えられて生きていると思うので。

■ 将来の夢・ライフプラン

 将来は、大好きな釣りと、スキー三昧の生活が出来るようになりたいですね。

-座右の銘: 案ずるより産むが易し
-好きな本: 陽はまた昇る、江戸川乱歩シリーズ、横溝正史シリーズ
-尊敬する人: 両親。今の自分があるのは両親のおかげなので、頭があがりません
-感謝している人と一言メッセージ: 妻、友人。いつもサポートしていただき感謝しています
-カナダの好きなところ: 色々な人種の方々が、独自の文化を変えずに生活ができるところ