「自分に忠実に一歩踏み出してみたらなるようになっていく」在トロント日本国総領事館 岩岡いづみさん|特集「カナダライフのヒント・キャリア編」

 ゲルフ大学・大学院で修士を取得した後、独立行政法人国際協力機構JICAに勤務した岩岡さん。ベトナムやラオスなどで数多くの国際協力事業に従事したのちに一昨年、12年間勤めたJICAを離職。現在は、カナダに移住し2人のお子さんの母親としてワンオペで育児をこなしながら在トロント日本国総領事館に勤務する。女性の社会進出が進んでいるとはいえ、異国の地で仕事と子育てを両立しながら、キャリアを積み重ねていくことは容易なことではない。岩岡さんのお話から女性のキャリア、そして自分に忠実に生きることの大切さについて考えていきたい。

友人との出会いが紡いだ大学院、そして国際協力への道

ー大学、大学院では国際協力について学ばれていたとのことですが、海外またはこの分野へはいつごろ興味を持たれたのですか。

 アフリカの飢餓について初めて知って以来、国外で起きていることに関心を持ち始め、何とかならないかと思う小学生の自分がいました。この流れで大学では、総合政策学部で国際開発に関することを幅広く学び、インドやバングラデシュで活動する短期NGOプログラムに参加したりしました。そこで実際に児童労働を目の当たりにし、そこからもっと深く国際協力に携わりたいと思うようになり、大学院でも国際開発学を専攻するに至りました。

ーゲルフ大学院をご卒業されていますが、なぜ海外の、それもカナダの大学院を選択したのですか。

私をカナダへ導いてくれた友人と。先月一緒に出かけたキャンプにて
私をカナダへ導いてくれた友人と。先月一緒に出かけたキャンプにて

 国際協力の仕事なので語学力と開発学の専門性を身に着けることは必須であったため、大学時代に大学を1年間休学し、英語の環境に身を置きながらジンバブエでのボランティア活動に従事するためアメリカのNGOプログラムへ参加したことがありました。そこで20名ほどいる参加者の中に何人かカナダ人がいたのですが、その時初めてカナダの人は、自分の意見も言うけれどきちんと人の話も聞く国民性だということを知ったのです。

 当時、私だけがネイティブスピーカーではなく、毎日ついていくだけでも必死だったのですが、ある日カナダ人の参加者の一人が日本語で「頑張って!」と書かれたカードを枕元に置いてくれていたことがありました。中には「私はいづみがどれだけ頑張っているか知ってる」というメッセージが書いてあって泣けちゃいましたね。

 そんな彼女との出会いもあって、開発学を学べる大学の一つとしてゲルフ大学院のことを教えてもらい進学したのですが、本当に自分にピッタリの大学で充実した学生生活を送ることが出来ました。彼女との出会いがカナダ、そしてゲルフ大学院へと導いてくれたのです。

今やらないと後悔する2つの選択肢がある時の判断基準は「どちらが後悔しないか」

ー長年勤務したJICAを離職し、カナダへそしてトロントへ来た決め手は何だったのですか。

 大学院時代がとにかく楽しかったので、いずれはカナダに戻りたいと思っていました。JICAでの仕事にはとてもやりがいを感じていて、このまま続けたいという思いを持つ一方で、3年ほど前に勤務先のベトナムで同い年の同僚の急な不幸が重なるという出来事がありました。

 私の母も私が20歳を過ぎて間もなく急逝したので、人生いつどこで何があるかわからないというのは常に根底にあって、カナダに移住したいという希望を先延ばしにして後悔することにならないだろうかと考えるようになりました。

 ちょうどJICAで10年海外勤務したという節目を迎え、また、一足先にカナダに職を得ていたノバスコシア州にいる父親とも一緒に住みたいという子供たちの強い希望もありカナダ行きを決断しました。

ゲルフ大学院でのアルティメットフリスビーの仲間と
ゲルフ大学院でのアルティメットフリスビーの仲間と

 ノバスコシアへ来たもののこれまでのキャリアや専門性が特殊なためどんな仕事ができるだろうかと思案していた矢先、たまたま友人が送付してきたメールのリンクで在トロント総領事館で人材募集していることを知りました。

 二国間経済協力、特に現場のニーズを汲み取って相手国政府との橋渡しになるという文脈でこれまでの経験が活かせると思い、挑戦してみようと子どもたちを連れてトロントに来ることになりました。

ーご家族はどのような反応でしたか。

 当時の夫の反応は、子供たちと離れることに難色を示したものの、私が家庭内だけに収まらない人間だということをよく知っているので「いい仕事が見つかってよかったよね」と。子供たちにもトロントに引越すことになったらどうかと聞いたら、こちらも驚くほどあっさりとした反応でした。幼い頃からいろんな国を経験して転勤も慣れっ子になっていたからか「その仕事やってみたいんでしょ?じゃ、行こうか」と(笑)。

 ただ、実際に来てみると、折角一緒になれた父親とまた離れなければならない寂しさや学校にすんなり馴染めなかったりと、予想以上の壁にぶち当たりました。泣きながら耐える子供たちを見て、家族の思いや子供たちに与える影響を顧みずに自分のことしか考えてなかった…と正直苦しかったです。今はこちらの生活にもすっかり慣れて学校生活も楽しく送ってくれているのですが、これまでもそれなりのプレッシャーはあったはずで、その意味ではついてきてくれた家族には感謝しかありません。

「両立」とかいて「もがく」と読む

ー仕事に励みながらも、現在は2人のお子さんの育児をワンオペでされています。これまでのキャリアの築き方やどのようにして仕事と子育ての両立をされてきたかなどを教えてください。

 前職のJICAでは女性も働きやすい環境だったので女性の転勤に家族がついてくるといった例も珍しくありませんでした。それぞれの任地で活用できるリソースや周囲の方々の力をお借りして、そして随伴してくれた家族の支えがあってこれまでのキャリアを続けることができました。ですが今回カナダに来て初めてワンオペを経験してみて正直なところ全く思うように両立はできていません。私の場合、「両立している」と書いて「もがいている」と読むんです(笑)。

JICAラオス勤務時代に地方出張した際
JICAラオス勤務時代に地方出張した際

 最近は子供のお弁当をパックするのを忘れて学校から電話がかかったり、週末の予定をダブルブッキングしていたりあまりにも家のことが思うようにマネジメントできず、上の子に自分ができない分のしわ寄せが行っているという罪悪感からもう無理!といっぱいいっぱいになっていたのですが、尊敬する先輩ママ友から「いいのいいの、それでいいの~。子供にはママが頑張ってる姿はちゃんと伝わってるんだからね。大丈夫」と言われて涙が出てしまいました。

戻っていたら、あの時の出会いもない

ーカナダへ来たことに対して後悔したことはありますか。

 カナダでは「こうあるべき」という縛りがあまりないというか多様な文化が融合しているからか一定の大枠の中でいろんな生き方が許容されている気がします。女性のバスの運転手や消防士も珍しくないですし、性別や年齢に関わらず様々な職種に挑戦したりやり直しができるところが良いなと思います。

 ノバスコシアに来てしばらくは悶々とした日々もありましたが、カナダに戻ってきたことに対する後悔は全くありません。これまでもそれぞれの国で、職場でも尊敬できる上司や同僚と、そしてプライベートでもたくさんの刺激をくれる友人との出会いがありました。それが今の自分の身になりかけがえのない財産になっています。今ある道を進んでいなかったら、これまでの出会いもなかったと思うとあの時に戻ってやり直したいという思いはありません。

踏み出すことでなるようになっていく

ーキャリアを積み重ねていくなかで、どれくらい先を見据えてビジョンを描かれていますか。

 私の場合、あまり明確な中長期的なビジョンというのは立ててこなかったです。立ててもその通りにならないことのほうが多いことに気づいて、あまり遠い先を考えてもしょうがないと。大きなところで10年後はこんな風になっていたい、こんな生活を送っていたいというイメージは持っていますが、そこから外れない形でその時その時でやってみたいと思うことがあったら取り敢えずそれをやってみる。やってみたらそこで出会ったご縁がきっかけになって次に繋がったり、またやってみたいことが出てきてまた一歩踏み出す。それが積み重なって今に至っているという感じです。

ー海外でキャリアを築くことや新たなスタートに向けて歩み出そうとしている人に向けてメッセージをお願いします。

 昔はがむしゃらに目標に向かって頑張っていた時期もありましたが、必要以上に頑張りすぎると苦悩しか生まれなくなってしまうこともあると思うのです。なので今は、与えられた環境の中で自分でここまでやったと納得できるところにきたら、あとは目に見えない流れに自分の身を委ねるようにしています。

 日々なんとかこなしているような自分が人様に何か言えるような立場では全くないのですが、これまでの経験から言えるのは、一歩踏み出してみれば、周りの協力もあってこそですが、なるようになっていくということではないかと。それぞれの場所での出会いに感謝しながら、自分の気持ちに忠実に努力したら必ず次へ繋がっていくものだと思いますし、行きつくべきところに行きつくのではないかと思っています。