エンタメとしての紙芝居産業|世界でエンタメ三昧【第79回】

エンタメとしての紙芝居産業|世界でエンタメ三昧【第79回】
 誰もが見たことがあるのに、もう誰もみなくなったエンタメ―「紙芝居」。子供時代は心ときめかせたのに、最近そういえば見ることがなくなった…と思っていたところに、ふと出会ったのは京都マンガミュージアムに常設された紙芝居屋でした。カカンカンカンと鳴り響く拍子木の音に誘われて室内に入り、40歳にもなって座高の低い学校の椅子にちょこんと座り、どんな話が聞けるのかとワクワクしてると、「はい、そこのお兄さん!」と質問されてビックリする。

 紙芝居は図書館でみるような教条的なものとは全然違います。声を張り上げ、質問をされます。「はい、そこのアナタ、夢はなんですか!?」「あ~小さい夢ですねえ、じゃ、そっちの彼氏さんは?あ、彼氏じゃない?逆にお父さん?こりゃ失礼しました!」。紙芝居師のめくるめく話題の采配に振り回されながら、自然とお客さん同士が顔をみあわせて笑います。いつのまにか室内の7~8人は同じクラスの生徒のような気持ちで不思議な空気が流れます。

 そのインタラクティブな仕掛けに魅せられ、今回はエンタメとしての紙芝居について。

 紙芝居で売るもの(水あめ)が不衛生だとか、演じる紙芝居の内容が非教育的だとかいわれた上に、昨日まで食うや食わずの失業者だったバイニンは、そのころの流行であるルンペン―浮浪者のような恰好をしていた。当時の警察は何かにつけて民衆に威張り散らした。ルンペン同様の紙芝居屋は警察が「オイ、コラ」と威張って優越感を感じるにはちょうどいい相手であった(加太 1971)

 1930年の話です。当時は入場料の徴収もできない、だだっぴろい公園で自転車かかえたオジサン1人が行う移動式紙芝居。そこで当時1銭(当時でアンパン1個、現在の200円くらいの価値)で飴を買い、ゆっくりと目のまえに座って20~30分の即興劇をみる。いまでいうテキ屋・露天商のようなもので、当時は演芸落語もブームでしたし、いまだ映画もトーキー(無声にリアルの「弁士」が横で話しながら映画のセリフを言っていた)だったので、それらをもっとアマチュアにアレンジした芸だったのではないかと思います。

 紙芝居ももちろん商売。貸元と言われる紙芝居セットをもっていた出版社のような企業があり、彼らから品を借りた業者は自転車と木枠と拍子木を携えて、手ごろな公園をみつけてはそこで飴を売りながら商売をするのです。1日15銭(現在3千円)で貸し出して自由に商売してもらう形式や、初期に1〜10円(現在2万~20万円)貸元に払い込みをして所属契約をした上で1日2銭(現在400円)で安くサブスクする形式などいくつかパターンがあったようです。元手がいらず、1人で商売ができる、とあって、1930年前後は世界恐慌後の失業対策とも相まって、上記のように浮浪者じみた様々な人々が紙芝居屋としてデビューしていた、という時代背景がありました。

日本で年間6億人が観客動員されていた紙芝居の戦後

 まあ正直なところ、そんなに「質のよい娯楽」ではなかった紙芝居。ただそこにも2度ほど産業としてのピークがあります。世界恐慌後の回復景気の1930〜35年、第二次大戦後の復興時の1950〜55年、いずれも「人々が好景気に向かう気分の中でインフラが整っていない」間隙に、とにかく資本いらずの紙芝居は機動性を武器にほかのエンタメを押しのけて一斉に台頭していきます。

 1930年の一次ブームの時には全国1万人の紙芝居屋がいたといわれ、当時警察庁の調査では貸元40社、画工(絵描き)150、紙芝居屋2千名、こうした数千人規模が活動する紙芝居屋が数億人規模の観客を集めるほどにもなります。第二次ブームの1950年前後ではもう少し落ちるものの、大阪だけで1500名、全国に5千名の紙芝居業者がいたと言われます(図1)。

図1: 紙芝居業者数・映画館数・テレビ普及率

 地域別に紙芝居事業者数をみてみると、やはり東京と大阪という2大都市圏がその一大産地であったといえます(図2)。1949年の日本では紙芝居の全国動員数はなんと「6.2億人」。これは人口8411万人の時代において、映画館の動員数7.8億人に迫る数字でした(2019年の日本では映画が1.9億人、音楽コンサート全てで0.5億人、プロ野球全部で0・15億人)。国民1人あたり年間7.4回、大阪や東京においては年間20~30回。子供が中心であったと考えるとこの倍は見ていたはずで、そう考えると、毎週のようにどこかしらから紙芝居屋が現れ、それを視聴していた一大コンテンツだったはずなのです。

図2:1949年の地域別紙芝居の観客動員数

 また紙芝居は黎明期のメディアミックスキャラクターを生み出した母体でもあります。1931~33年は「黄金バット」が日本中を席巻するというほどに大流行しており、演目に黄金バットがないと人が集まらないといった状況でした。ただ著作権概念などとうになかった当時、黄金バットは思い思いに自由に創作されます。時にはナチスと戦い、時には怪獣をなぎ倒す。黄金バットの知名度はその後も続き、1950年には実写映画化、1967年にはテレビアニメ化、1990年にはコミック化していきます。

倫理問題という自縄自縛

 ではこれほどまでに活況を呈した紙芝居がどうして、急落してしまうのか。図1でみると1955〜60年は映画、1960〜65年は白黒テレビの急激な普及と反比例するように、紙芝居業者は縮小していきます。全国の映画館が2410(50年)➡4000(54年)➡7500(60年)、それに対して大阪の紙芝居業者は1540(55年)➡388(61年)➡99名(65年)、60年代後半にはほぼ消滅の危機を迎えます。

京都マンガミュージアム常設「ヤッサン一座の紙芝居」
京都マンガミュージアム常設「ヤッサン一座の紙芝居」

 ただ、果たして本当に映画やテレビのせいだったのか?1回200円程度だった紙芝居に対して、当時の映画は今の1500円くらい。金額的にも消費空間的にも、実はそれほどカニバリはありません。テレビもまた、50年代・60年代はコンテンツ黎明期。冒頭であげたような紙芝居の面白さを代替するほどのものではなかったはずです。調べれば調べるほど、紙芝居の早期凋落は外部要因よりも内部要因だったのでないかという疑問があがってきます。

 紙芝居の「イカガワしさ」は正直否定できません。当時は奇想天外な内容も多く、「豹の脳みそを移植された科学者が魔人になって犯罪を犯す(『魔人』)」とか「三味線の皮にするため猫殺しを生業にしていた親の娘ミーコが、生きたままねずみを食べる猫娘となり、四つん這いでエロティックな描写を魅せる(『猫娘』)」と、実は今は残っていない紙芝居のコンテンツの魅力はエログロにありました。

 米国占領軍のGHQも来日時にたいそう驚いたようで、当時の大衆が活況を呈していたKamishibaiというものの内容を見てみると(Paper Theaterとも呼ばれていました)、「なんじゃこりゃ!?」となったようです。新聞・通信・出版などの検閲課に「紙芝居担当係」を設け、実際にアヤシイ内容は取り締まりました。GHQの軍事裁判の対象になった紙芝居台本屋もいたくらいです。それが1950年前後以降、「子供を守る会」「教育委員会」から非難の的になって総攻撃を食らい始めます。「下品な言葉を使い、不衛生な手でアメを売る紙芝居屋が、威嚇、卑わいな内容の作品を子どもに売ることへの批判」は日本中に広がっていき、神奈川・千葉・大阪などでは取締条例が交付され、試験に合格した業者のみが営業をできるという形に規制されていきます。

 種々雑多で分散的な紙芝居業者(当時のトップ20社「そうじ映画社」「富士会」などみても100~200名所属がいいところ。現在まで株式会社として残っているところは皆無です)では、こうした〝浄化〟の動きに対応し、業界団体を方向付けるようなことはできなかったはずです。またルンペンすれすれの業者も多かった中では、思うように団体を立ち上げることもかなわなかったはず。

 次第に紙芝居の内容は倫理規制に自縄自縛となって、結局「面白くないコンテンツ」になっていったのではないかと思います。菓子流通も整備され、その購入場所が紙芝居屋に限定されなくなってきた点もあるでしょう。常設施設による芸能化や、スポンサー・協賛型への転換、クリエイティブの幅を地域別に特徴づけたり、版元整備して人気度にあわせて出版したりといった取り組みはもっとできたのではないでしょうか。

即興劇のエンタメ性

 ちょっとさかのぼると能や歌舞伎もまた同様のビジネスがなされていました。江戸中期に「芝居小屋」ができるまではそれらも基本的には「辻能」などと言われて、屋外で人を集客するためのエンタメとしてそこらじゅうで半分アマチュアのような連中が雇われて行う娯楽でした。落語や漫才の歴史をみても、こうした紙芝居屋の市場と軌を一つにする点も目につきます。

 個人的には紙芝居は本来「マンガ」×「落語」×「映画」の間をとったような即興劇コンテンツであったのではないかと思います。1970年代以降は「教育」という一点に紙芝居が集中してしまい、いま図書館に残存しているのはその話芸もクリエイティブの幅も抜けた、絵本の代替品のようなもの。本来は落語やマンガのようにクリエイティブの幅が無限にあるものだったのではないか、とヤッサン一座の講演をみて思いました。テレビ放送の功罪は、一度に大量の人々にコンテンツを届けられるようになった反面、「作品は作って見せるもの」という一方的な創作文化を根付かせてしまったことがあります。落語もプロレスも紙芝居も、その実は一つの劇場空間のなかで、「視聴者を巻き込んで、空気によって皆で盛り上がる」という演出空間づくりそのものがサービスでした。テレビに放映されるように、学校の教材で取り上げられるようにとコンテンツを変えてしまうことはそのエンタメの本義を失う方向にも行きかねません。今であればYouTubeもありますし、様々なDirect to Customerなコンテンツが作れる時代でもあります。即興劇の面白さはテレビという箱にとらわれずに視聴が分散している現代だからこそ、1世紀前の紙芝居屋の面白さを再現すべき時なのではないか、と思います。